一聞百見

もてなしの心込めた京菓子「末富」4代目の山口さん

末富4代目の山口祥二さん。「お客さまごとに味や色味を少しずつ変えることが、京菓子のおもてなし」と語る=京都市下京区(渡辺恭晃撮影)
末富4代目の山口祥二さん。「お客さまごとに味や色味を少しずつ変えることが、京菓子のおもてなし」と語る=京都市下京区(渡辺恭晃撮影)

雪が積もる梅、雨にぬれた紫陽花(あじさい)-。節だった手からは何千、何万と四季の移ろいを込めた繊細な京菓子が生み出されてきた。千利休を祖とする茶道三千家の茶会を彩る京菓子を作り続けてきた京菓子司「末富(すえとみ)」。その4代目として、培われた伝統の継承と洋菓子との融合という新たな歴史の創造に挑んでいる。自ら厨房(ちゅうぼう)に立ち京菓子と向き合う姿に、創業100年余りで名店へと上り詰めた理由が見えてきた。

京都市中心部を東西に貫く四条通の南4本目、松原通に面し、象徴ともいえる「緋扇」が入り口で出迎える店内には、伝統的な生菓子やハロウィーンのお化けが描かれた煎餅(せんべい)などが並ぶ。

「伝統ある京菓子でも、お客さまごとに味や色味を少しずつ変える。それが京菓子のおもてなし」。ネクタイを締めた白衣姿で、店の主らしいおおらかな笑みをみせる。

エリザベス女王も堪能

9月に亡くなった英国エリザベス女王が生涯で唯一の来日となった昭和50年5月、桂離宮で催された野だてで口にした京菓子は、その言葉が体現されたものだった。当時、裏千家の千玄室前家元(99)から女王へ振る舞う京菓子の制作依頼を受けたのは、先代の富藏さん(85)。今でこそ健康にいいと小豆(あずき)が世界に広まりつつあるが、今ほど認知されていない時代に京菓子の命ともいえる小倉餡(あん)を卵餡に変更した。「お客さまが望むのであればその気持ちを尊重する。邪道ではなく京菓子の正しい姿」とその意思をくみ取る。

昭和50年5月、エリザベス女王が来日した際に口にした「唐衣」(末富提供)
昭和50年5月、エリザベス女王が来日した際に口にした「唐衣」(末富提供)

女王に振る舞われたのは杜若(かきつばた)に着想を得た「唐衣(からごろも)」。白と薄紫に染まるこの京菓子は、旅先で美しい杜若に触れ、着慣れた唐衣のように長年連れ添った妻を思い出す様子を詠(うた)った和歌が形になったものだ。「地球半周をはるばる移動してきた女王をねぎらう一品だった」。先代は、唐衣に込めた思いをこう明かしたという。

目や舌だけでは分からない「もてなしの心」も込められた京菓子。自身も「お客さまが喜び、満足することが一番大切」という職人としての原点を学んだ。

4代目に就任した平成28年、三重県で行われた先進7カ国(G7)首脳会議(伊勢志摩サミット)では、国旗を描いてアレンジした煎餅「京ふうせん」を各国のファーストレディーのために作り、日本外交を京菓子でサポートする大役も担った。

つかみ取った信頼は一代にして築き上げたものではない。中には先代からの付き合いとなる人もいる。先人への恩を忘れないからこそ、「末富を守るという思いは常に胸中にある」と表情を引き締める。その姿からは、試行錯誤しつつ引き継いだバトンを次世代へとつなげる並々ならぬ覚悟がにじみ出ていた。

学び続ける心忘れず30年

丁寧に餡を重ねて京菓子を作る山口祥二さん。「学び続ける心が大切だ」と実感する=京都市下京区(渡辺恭晃撮影)
丁寧に餡を重ねて京菓子を作る山口祥二さん。「学び続ける心が大切だ」と実感する=京都市下京区(渡辺恭晃撮影)

丹波産の小豆(あずき)の甘い香りに包まれる厨房(ちゅうぼう)。餡(あん)たきをする若い職人を気にかけながら京菓子作りにとりかかる。約30グラムの丸くこねられた小倉餡をそっと手のひらに乗せ、細切れになった黄と緑の餡を箸で慎重に押し当てていく。振り返ると、この所作を30年余りひたすら続けてきた。

もともとは京都・西陣にある帯屋の次男。幼いころは帯の図面を引く絵師が出入りするなど「ものづくり」が身近な環境で育った。「帯に使われる日本画は京菓子にも影響を与えており、今の仕事にもつながっている」という。とはいえ、大学卒業後は東京・西武百貨店に就職。その後、知人の紹介で先代の長女と知り合って結婚、平成3年に31歳で末富に入った。

末富の秋の生菓子「光琳菊」。表面の輝く氷餅(こおりもち)が美しい(渡辺恭晃撮影)
末富の秋の生菓子「光琳菊」。表面の輝く氷餅(こおりもち)が美しい(渡辺恭晃撮影)

「京菓子の知識は全くなかった」。菓子作りの経験は大学時代にアルバイトでケーキを作った程度だった。右も左も分からない〝新米〟の仕事は誰よりも早く仕事場に来て道具を用意し、砂糖などを量ってそろえること。茶会が朝に催される場合は、午前4~5時の起床で「朝がとにかくつらかった」と笑う。

末富では5年間の修業期間を目安に、熱い餡を包む練習から始まる。材料によっては100度近い温度まで達し、手袋をしても手は真っ赤になった。会社員時代にはない経験ばかりだったが、不思議とつらくはなかった。「幼いころから職人に囲まれていたので、物を作れる環境にいることがうれしかったんです」

一人前の職人を目指し、仕事が終わる午後3時以降は自主練習に励んだが、ほかの若手同様に必ず先輩職人が傍らで指導してくれた。だからこそ若手には「学ぶ心を持て」、ベテランには「教える心を持て」と伝えてきた。

学ぶ心は手先の技術だけにとどまらない。先代の「仕事場に籠もるばかりではなく、外で花の色の変化を感じなさい」との言葉に、今でも休日には外を歩き、桜の咲き具合や紅葉の色づき方を肌で感じる。美術館へも頻繁に足を運び、その色遣いが京菓子へ生かせないかと目をこらす。

 「八重葎」。晩秋の寂寥感を表している(渡辺恭晃撮影)
「八重葎」。晩秋の寂寥感を表している(渡辺恭晃撮影)

京菓子と向き合いながら自分なりの流儀も見つかった。「京菓子は味、見た目、(込められた思いや背景を意味する)銘のどれか一つでも欠けたら完成しない」。味や見た目は練習を重ねて上達するものだが、銘だけはそうはいかない。

同じ京菓子でも茶主の要望で銘が変わり、それに伴って色合いなども変化するため、修業時代から配達のたびに家元らへのあいさつを繰り返した。「使っていただく方の顔や様子が分からないといいものは作れない。これも父の教えです」と伝統を守る。

末富の一員となり、「学び続ける心を持たなければ」と歩を進めて30年余り。京菓子離れが進んでいるのも肌で感じる中で、4代目は今年新たな挑戦に打って出た。

新たな和洋の融合に挑む

「末富の主人になってくれないか」。平成28年、京菓子の本が並ぶ書斎で、26歳から53年間にわたり当主として店を守ってきた先代から告げられた。その数年前から、先代から当主としての自覚を促されていたこともあり、「覚悟が固まった」。56歳で4代目を継ぐ決意をした瞬間だった。

継承と創造-。この両輪を大切にしつつ、和洋の融合に挑む山口祥二さん=京都市下京区(渡辺恭晃撮影)
継承と創造-。この両輪を大切にしつつ、和洋の融合に挑む山口祥二さん=京都市下京区(渡辺恭晃撮影)

一職人として厨房(ちゅうぼう)に立っていたそれまでとは違い、「自分の意見が末富の意見になる」という重圧を肌で感じる毎日。茶会で振る舞われる京菓子は茶主からの要望を受けて考案されるが、時にはその場で判断できない要望も受ける。「『分からない』と伝える勇気が必要。分かったふりをすると必ず痛い目に合う」と当主として必要な器量を説く。

完成品を想像しスケッチをしながら「もっと色味を薄く、ここは濃く」と茶主と話し合いを重ね、数カ月後の茶会に間に合わせなければならない。ゼロから1を生み出す仕事に「うまくできるのだろうか」と不安を感じることもあるが、茶主の納得した顔を見たときに喜びへと変わる。

 「末富ブルー」として知られる包装紙
「末富ブルー」として知られる包装紙

家元や茶主との外交だけでなく、職人の育成も当主の仕事の一つだ。末富で働く職人は8人。自分よりも職人歴が長い熟練者がいる一方で、20代前半の若手もいる。修業のため預かっている他店の後継者らには「何かを学んで帰りなさい」と伝える。そこには成長して巣立ってほしいとの思いとともに、末富の看板に傷をつけてはならないとの覚悟も秘められている。

店を未来へつなげることに心を砕くが、末富の魅力は伝統を生み出すことにもある。その一つが「末富ブルー」。包装紙に使われる澄んだ青空のような色で末富の代名詞にもなっている。考案したのは2代目・竹次郎と日本画家の池田遥邨(ようそん)。終戦直後、自然界には青の食べ物はなく食欲を減退させると料理店などでは青い包装紙は使われていなかったが、2人は何度も試作品を作り〝末富の色〟を完成させた。「ハイカラや」と京都で噂になり、いまや末富の象徴にもなった。

自身もそうした遺志を受け継ぎ、新たな挑戦を始めた。青いものが熟すように伝統にも始まりがあり長く愛されてほしい-。こうした銘が込められた末富の新たなブランド「青久(あおきゅう)」を設立。和と洋の融合を目指し小倉餡(あん)とフィナンシェのセットや麩焼きをチョコレートで包んだ新商品の販売を8月からジェイアール京都伊勢丹で始めた。「京菓子のことなら分かるが洋菓子のことはまだまだ勉強中」としつつ、「同業者にはない学びがあり面白い」と年を重ねてなお成長できることに目を輝かせる。今後は末富本店近くに青久専門店の開業も見据えている。

 麩焼きをチョコレートで包んだ青久の商品。カラフルなボタンのようなかわいらしさが人気だ(渡辺恭晃撮影)
麩焼きをチョコレートで包んだ青久の商品。カラフルなボタンのようなかわいらしさが人気だ(渡辺恭晃撮影)

「守らなければいけない伝統。伝統の始まりとなる変化。これらを大事にしながら、大切なお客さまが満足する京菓子を作るために挑戦し続ける」

継承と創造。相反する両翼を羽ばたかせ4代目は末富を未来へと導く。(聞き手 京都総局 鈴木文也)

末富(すえとみ) 明治26(1893)年、京菓子店「亀末廣」で修業を積んだ初代・山口竹次郎がのれん分けを許され創業。伝統的な京菓子だけでなく、ハロウィーンやクリスマスに着想を得た商品も作っている。生菓子以外に煎餅や飴(あめ)細工も人気。本店(京都市下京区)のほか、大阪や東京などの百貨店に出店している。

やまぐち・しょうじ 昭和35年、京都市生まれ。同志社大卒業後、西武百貨店勤務を経て、平成3年に末富に入社。28年に4代目に就任した。同志社女子大と大谷大の非常勤講師を務めるほか、新型コロナウイルス禍前までは毎年フランスで講義し、京菓子の普及にも努めている。好きな画家は尾形光琳。余分なものを省いたシンプルな作風が好きだという。

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