話の肖像画

元サッカー日本代表、「セレッソ大阪」社長・森島寛晃<1> 予想外だった日本初「W杯」メンバー

W杯フランス大会のメンバー発表で決意を色紙に書いた森島寛晃さん=1998年5月
W杯フランス大会のメンバー発表で決意を色紙に書いた森島寛晃さん=1998年5月

《11月20日に開幕するサッカーのワールドカップ(W杯)カタール大会に臨む日本代表メンバー26人が、1日に発表される。サッカー選手にとっては、世界最高峰の舞台に立てるかどうかの分かれ道となる「運命の日」。日本代表が初めてW杯への扉を開いた1998年フランス大会と、日本中がW杯フィーバーに沸いた2002年日韓大会を経験している自身は、いつも当落線上の扱いだった》


(フランス大会の)最初はどっちかというと、メンバーに入らないんじゃないかって思っていたんです。(前年のアジア最終)予選のときに監督が、加茂(周)さんから岡田(武史)さんに代わりました。最初の試合で岡田さんがメンバーをいじって、出場機会をもらったんですが、生かし切れませんでした。(10月11日に敵地で行われた)ウズベキスタン戦です。ビッグチャンスを外して、ちょっと流れが変わって…。立ち上がりにゴールキーパーと1対1になったんですが、体に当てて外しちゃったんですよ。流れは良かったんですけど、ばたばたしだして、全然(得点が)入りませんでした。


《試合は前半32分にウズベキスタンに先制を許し、苦しい展開となったが、試合終了間際に追いついて1―1の引き分け。その後「岡田ジャパン」は持ち直し、ジョホールバル(マレーシア)でのアジア第3代表決定戦でイランを下して史上初のW杯切符を手にした。「ジョホールバルの歓喜」として知られているシーンである》


ウズベキスタン戦を境に、やっぱりなかなかチャンスがなかったんです。その後の試合でも出場はしましたが、最後のジョホールバルはメンバー外でした。なので、ほぼほぼ自分のチャンスはないだろうと思いながらのメンバー発表でしたから。


《1998年5月7日。直前のスイス合宿に連れていく25人が発表された。当時のW杯代表枠は22人。岡田監督は登録期限前に絞り込んで、3人を外す計画だった。自身は25人に選ばれた際、色紙に「フランスのピッチに立つぞ‼」と記した》


合宿に行ったのも覚えています。パスタとかパンが、おいしかったんですよ。最初のメンバー発表で選ばれたっていうのは、うれしかったですね。(ふるい落とされる3人に入っても、帯同すればいいので)フランスには多分、もうどっちにしても行けるだろうなと思いましたから。そもそも、ここに入れないと思っていたんです。


《最終的なメンバー発表は6月2日。集まった報道陣を前に、岡田監督は衝撃の言葉を口にした。「外れるのは市川(大祐)、カズ、三浦カズ。それから北沢…」。日本代表を牽引(けんいん)してきた三浦知良と、主要選手だった北沢豪の名前が告げられた》


フランス大会のメンバーは、これまで活躍してきた選手が最終的に入ると思っていました。多分、みんなもそう思っていたはずです。だから、誰もカズさんと北沢さんが外れるとは思ってもいなかった。どう考えても、自分たちが外れるはずだと思っていました。自分と誰かあと2人。そういう話を合宿中に仲が良かった選手とするのですが、ナナ(名波浩)は間違いなく、合格じゃないですか。だからナナだけは人ごとでしゃべる。みんなは自分事でした。(聞き手 北川信行)

もりしま・ひろあき 昭和47年、広島市出身。地元の大河(おおこう)FCでサッカーを始め、静岡・東海大第一高から前身のヤンマー入りし、セレッソ大阪一筋。得点感覚に優れたストライカーとして日本代表でも活躍し、ワールドカップ(W杯)2大会に出場した。丁寧な受け答えなどから「日本一腰の低いJリーガー」とも称された。引退後はアンバサダーなどを務め、平成30年に社長に就任した。

<2>に続く




会員限定記事会員サービス詳細