本郷和人の日本史ナナメ読み

大内氏の謎㊦大内・平賀の拠点奪った伊賀氏

花見客でにぎわう東京・上野恩賜公園の不忍池(鴨川一也撮影)
花見客でにぎわう東京・上野恩賜公園の不忍池(鴨川一也撮影)

ぼくは8月からネットでも大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の解説を始めてみました。これが実に難しい。書籍にまとめることを前提にしない企画ですので、ともかくネット記事を読んでいただくことが至上命令。でも、どういう記事にすれば、皆さんは読んでくださるのか。

ここが違う、あそこが違う、と歴史研究者の目でドラマのあら探しをするのは、ぼくがいやです。かといって、俳優さんの演技を過不足なく評価する腕もない。落ち着くところは、やはり、ドラマでは描き切れなかったところの解説ということになるのでしょうが、これも「お勉強の要素」が強いと途端に敬遠されます。研究的には最前線、おう、こういうことだったのかと気づきを記したものの、大惨敗したものを書いてみましょう。産経の読者の皆さんなら、つきあいが古いので、温かく迎えてくれるかな?

2代執権の北条義時が後妻を迎えました。伊賀という家の娘なので、伊賀の局、と呼ばれました。彼女については興味深いエピソードがあります。承久の乱のあと、6年ほど逃げ回っていた二位法印尊長(そんちょう)という、後鳥羽上皇側近の僧侶がいました。やがて彼は六波羅探題の武士に捕まるのですが、そこで驚くべきことを口にしたのです。「私を早く殺せ。伊賀の局が北条義時の命を奪うときに用いた毒を飲ませろ」(『明月記』)。尊長の言が本当ならば、義時は若い後妻に殺害されたことになります。

その真偽の程はさておいて、今回は伊賀という家のことをお話ししていきましょう。この家についてはちゃんとした説明が見当たりませんので。

伊賀氏は『尊卑分脈』に、ムカデ退治で有名な「田原の藤太」こと藤原秀郷の子孫で、天皇の生活を公私にわたってサポートする「蔵人所(くろうどどころ)」の下級官人に任じる家だ、と記されています。ただ、『尊卑分脈』は、貴族の間で書き継がれたものなので上級・中級貴族の血統は確実に記しているのですが、下級官人や武士の家については怪しい部分があります。13人の合議制に名を連ねている安達盛長と足立遠元を、「あだち」という音にひっぱられて一族にしてしまうなど、隅々までは信用できないのです。

義時の妻になった伊賀の局の父親は「伊賀守」を務めています。それで、家の名も伊賀氏を称した。安達荘(福島県)を入手したので、初めて安達を名乗った安達盛長スタイルですね。ということは伊賀氏も、もともと本拠と呼べる土地を持っていなかったんじゃないか。となると、それなりの規模を持つ在地領主=武士ではなかった可能性が高い。下っぱ蔵人を務めていたという『尊卑分脈』の説明と併せ考えると、伊賀の局の父、伊賀朝光は源頼朝のヘッドハンティングに応じて京から下向した、下級官人の一人だったのではないでしょうか。それで仕事がよくできて、見どころがあったので、上司の二階堂行政が娘を娶(めあわ)せ、伊賀の局が生まれた。

では、いつ伊賀氏は「伊賀」を名乗ったのでしょう? これは明らかに平賀朝雅(ともまさ)が失脚した後だと考えられます。それまでは幕府内で存在感が薄かった朝光ですが、婿(むこ)となった義時が伊賀の国司に推薦してくれた。義時と伊賀の局の婚姻があったため、幕府の文官の一人にすぎなかった朝光が、一躍、国司となり、幕府要人の仲間入りを果たした。みんなからは「伊賀どの」と呼ばれ、家の名前も「伊賀」となった。こんな感じでしょう。

実はこの伊賀という国は、きわめて重要な土地なのです。伊勢・伊賀はもともとは清盛流の平家の本拠地。平家が都落ちして以降も、平家に心を寄せる武士が多くいた。源頼朝はそんな伊賀国に源氏一門の大内惟義(これよし)を送り込み、鎮撫(ちんぶ)した。惟義は平賀朝雅の兄。足利氏すらしのいで、源氏一門のトップの座を占めた信濃源氏です。彼は伊賀国で強大な権力をふるい、国内の大内荘も獲得した。平賀の名跡は弟の朝雅に譲り、大内を名乗った。これを契機として、伊勢と伊賀は、大内氏と平賀氏の根拠地になっていきます。平賀朝雅は、伊賀の知行国主になっています。

国主は国司の上級職です。一流の貴族が任じられます。幕府の中で国主となったのは、将軍のみ。増減はありましたが、相模、武蔵、駿河、伊豆の4カ国は鎌倉幕府の終わりまで、ずっと将軍が国主でした。国主は国司を任命する権利を持っています。だから、北条氏は、相模守と武蔵守を独占できたのです。

平賀朝雅は、後鳥羽上皇のお気に入りで、将軍と同じ格を有していました。朝雅は伊勢と伊賀の守護も兼ねていた。朝雅が失脚すると、大内惟義・惟信の父子が守護を務めた。彼らは後鳥羽上皇に仕え、北条義時と距離を取っていた。

そうすると、義時が朝光を伊賀国司にねじ込んだ意味は明らかですね。あなたは曲がりなりにもオレの舅(しゅうと)になったんだから、北条家のためにがんばってほしい。伊賀国司として、大内・平賀の勢力を切り崩してみせてくれ。義時にはそんな思惑があったのではないでしょうか。

伊賀の局の長兄である光季はこの後、平賀朝雅が務めていた京都守護に任じられて上洛します。そして、承久の乱が始まるときに、朝廷軍の攻撃を受けて落命しています。このことからしても、伊賀氏は北条義時に忠節を尽くす存在として、命を懸けて活動していたんじゃないでしょうか。それが後の伊賀氏の繁栄につながっていくわけです。

【プロフィル】本郷和人

ほんごう・かずと 東大史料編纂(へんさん)所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

伊賀と上野の意外な関係

東京・上野の名前の由来はご存じだろうか。江戸時代、この地には藤堂高虎の屋敷があった。高虎は伊賀と伊勢の一部を領地としていた。高虎は屋敷のあるこの土地が、自身の所領である伊賀の上野に似ているということで、上野、と名づけたという。高虎は徳川家康のお気に入りであった。西国で徳川家への反逆が起きたときには、彦根の井伊家と津の藤堂家が連繫(れんけい)して対処することが期待されていたと思われる。

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