(月刊「丸」・昭和41年4月号収載)
昭和九年の艦隊で、元帥は第一航空戦隊司令官となられた。旗艦は赤城、艦長は塚原二四三大佐(つかはら・にしぞう、のち大将)で、私は赤城の飛行隊長をしていた。直接の部下ではなかったが、日夕、接するをえた。
昭和九年のころ、もうこの頃には航空機こそ、きたるべき海戦の主兵と、航空に職を奉ずる者はみんなそう信じていた。しかし、海軍全体としては、なかなかまだそこまではいかず、また飛行機そのものの性能も貧弱であったから、演習にさいしても、砲戦、魚雷戦などの補助兵力として使われることが多かった。山本元帥はこのような中に、司令官として着任してこられたのである。