城だけでなく城下町ごと堀や土塁などで囲む「惣構(そうがまえ)」の外堀とみられる溝が発見された戦国武将、石田三成(1560~1600年)の居城「佐和山城」(滋賀県彦根市)。主君の豊臣秀吉は指月(しげつ、京都市伏見区)に築いた伏見城を惣構としているが、家臣の城では、佐和山城が初めてとみられる。豊臣方の惣構は三成も従軍した「小田原征伐」(1590年)で、豊臣軍の攻撃を受けた北条氏(後北条氏)の小田原城(神奈川県小田原市)を参考にしたといわれる。惣構は城や町の防御だけでなく、戦時に大軍を収容する機能を有していたとみられ、豊臣陣営では三成が率先して惣構を採用したのかもしれない。
城や町を防御
溝跡が確認されたのは佐和山城下町の北西端付近で、幅約10メートルの溝を約7メートルにわたって検出した。地形などの痕跡から外堀が約90度屈曲すると推定される場所で、溝の最下層からは16世紀末から17世紀初頭の志野焼の鉢が出土した。
佐和山城は織田信長が倒された「本能寺の変」(1582年)後、豊臣秀吉政権下で、家臣らが城主を務めており、三成は文禄4(1595)年、秀吉から城主に任じられて入城。荒廃していた佐和山城を大改修し、山頂に五層の天守を持つ城郭を築き、城下町の整備も行った。同5(1596)年に記したとされる家臣、須藤通光の書状に、「佐和山惣構」の普請があったとあり、外堀とみられる溝の確認で、三成の城主時代に惣構が構築されていたことが分かった。