最高時速200キロを超える世界初の高速鉄道。昭和39年10月に開業した東海道新幹線は当初、すでに海外でも前例のあった時速160キロを最高速度とする通達が出されていたが、記念すべき一番列車はこの通達に背き、一部区間で計画段階の最高速度である時速210キロに到達していたことが明らかになった。上り一番列車の運転士を務めた大石和太郎さん(89)=埼玉県久喜市=が産経新聞の取材に応じ、「新幹線の開業に携わった人々の思いを胸にあえて通達に反して210キロ運転をした」と証言した。
十河総裁の〝予言〟
東海道新幹線が発着する東京駅の18・19番ホーム。その先端にれんが造りの記念碑がひっそりと建っている。掲げられているのは第4代国鉄総裁、十河(そごう)信二のレリーフ。「新幹線の生みの親」と呼ばれる人物だ。
「新幹線は全国に広げてはいけない。せいぜい山陽までだな」。38年に新幹線開業準備室に配属された大石さんに国鉄トップの十河はこう切り出すと、続けて「新幹線が地方まで延びれば国鉄の赤字が増え、在来線の存続が危うくなるからだ」と語った。整備新幹線開業に伴う並行在来線の存廃の問題を見通していたかのような〝予言〟だった。
大石さんは当時、「現場の運転士にそんなことを言われましても」と戸惑いを覚えたが、十河は「周りに聞く耳を持つ人がいないんだ」とつぶやいたという。
「160キロ」の通達
30年に国鉄総裁に就任した十河は、国鉄を辞職していた技術者の島秀雄を三顧の礼で呼び戻し、技師長に据え、「夢の超特急」の実現を目指した。在来線と同じ線路幅(狭軌)による建設を主張する国鉄内部の声を押し切り、スピードアップと安定走行が期待できる世界標準の軌間での建設を推し進めたため、国鉄内部でも逆風が吹いていた。
大石さんは「新幹線はピラミッド、万里の長城、戦艦大和に続く『世界四大バカ』と言われていた」と述懐する。
39年10月1日、新幹線開業の出発式に、十河と島の姿はなかった。新幹線開発への莫大(ばくだい)な予算投入に批判が高まり、十河は38年5月に退任。島も国鉄を去っていた。晴れの舞台に、国鉄は功労者である2人を招かなかった。
開業1カ月前。大石さんは上司から「営業運転は(時速)160キロで行く」と命じられた。通達では最高時速160キロでの走行を想定したダイヤが組まれ、東京までの所要時間は「ひかり」で4時間。「試運転では常に210キロだった。160キロでは世間に約束をたがえることになる」。大石さんは悔しかった。
開業当初、時速210キロ運転にしなかったのは静岡県内などで路盤が安定していなかったためとされる。しかし、大石さんは「これは何らかの意趣返しなのではないか」といぶかしんだ。国鉄内部では新幹線への反発が根強かったことに加え、「『赤字ローカル線はいらない』と言っていた十河さんには敵が多かった」(大石さん)ためだ。
暗黙の了解だった
上り一番列車は午前6時、新大阪駅を出発。続く京都駅を定刻通り発車した。そこで、大石さんは一計を案じた。あえて列車を遅らせた上で、回復運転で時速210キロの最高速度を出そうとしたのだ。京都駅を出てもしばらくは時速70キロのノロノロ運転だった。
にもかかわらず、運転席に同乗していた指導助役は沈黙していた。所定のダイヤから外れれば、総合指令所から問い合わせがあってしかるべきだが、指令も何も言わない。「210キロでなければ、夢の超特急ではない。口に出す者はいなかったが、みんなの思いは同じ。暗黙の了解だった」。大石さんはこう振り返る。
大津市付近で、大石さんは「フルノッチ」と呼ばれる最大加速の操作を行った。瀬田川に架かる鉄橋を越えた頃、ビュッフェ車に設置された速度計の針が時速210キロを指した。「大変な騒ぎだよ」。車掌からの報告に車内の熱気が伝わってきた。鉄道史に輝く偉業はこうして成し遂げられた。大石さんは強調する。
「戦後の復興の象徴が時速210キロの新幹線だった。日本の鉄道の150年の歴史が日本の発展を示しているのは間違いない」(大竹直樹)