本郷和人の日本史ナナメ読み

大内氏の謎㊤破格の「七カ国守護」その訳は

醍醐寺にそびえる国宝・五重塔。平安時代の建立で、現存する京都最古の木造建築物として知られる
醍醐寺にそびえる国宝・五重塔。平安時代の建立で、現存する京都最古の木造建築物として知られる

豊臣秀吉が今生の思い出として一世一代の花見を催した醍醐寺さんは、歴史と伝統のある真言宗の名刹(めいさつ)で、多くのお経(聖教。読みは「しょうぎょう」)を現代に伝えています。たぶん今も続いていると思いますが、夏休みになると、日本文学や日本史学の研究者がチームを作り、どんな聖教があるのか、泊まり込みで調査をしています。仕事の一環ですのでもちろんノーギャラ。ただし、チームで調査実績を積んだ方が亡くなると、醍醐寺さんが供養をしてくださるそうです。ぼくは一度しか参加していないので、もちろんムリですけれど。

さて、そうした調査に参加されていた田中稔先生(1928~91年。ぼくの恩師である石井進先生の兄弟子。千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館教授を務めた)が、『諸尊道場観集(しょそんどうじょうかんしゅう)』という聖教を手に取ったところ、このお経にはいくつもの紙背文書があることに気づかれました。昔は紙が貴重品でしたので、読み終わっていらなくなった文書も廃棄しないことがあります。ひっくり返してウラの余白に文字を書く。たとえばそうした廃棄文書をつなげて、ウラにお経を書く。『諸尊道場観集』はそうして書き記されたお経だったのです。

田中先生は早速、その文書群を翻刻して、解読しました。すると、内容は驚くべきものでした。そのすべては「守護」としての大内惟義(これよし)の活動を示していたのです。当時の守護の仕事を知ることができる。それだけでも貴重でしたが、真に注目すべきは惟義が多くの国の守護を兼ねていた、その事実を確認できること。越前・美濃・伊勢・伊賀・丹波・摂津。以上6カ国。もしかすると、これに尾張も加わるかもしれない、と田中先生は学界に報告されたのです。

いや、あり得ないでしょう、普通。守護任国は通常1つ。どんな有力な御家人といえど、多くて2つ。それが6カ国? でも文書を読んでみると、認めぬわけにはいかない。ちなみに惟義の子に義海という醍醐寺の僧侶がいた。義海さんが惟義から不要になった文書をもらい、お経を書いたのだと推測されます。

大内氏は承久の乱では朝廷軍に属します。大内惟義はもともとは信濃の武士ですが、同じ信濃源氏の小笠原長清は幕府軍の大将の一人として、東山道を西に進軍した。一番信頼性の高い系図集、『尊卑分脈』を見ると、小笠原長清のところには「七カ国管領」との説明書きがあります。これは何だろう、とぼくは考えこみました。それで行き着いた試案が次の通り。

大内氏は守護を実は「7つ」兼ねていた。でも朝廷軍に属したので、幕府はそれを奪った。代わりに、あくまでも戦時の臨時措置として、同じく源氏の名門である長清をその「7つ」の国の守護とした。それが「七カ国管領」の意味ではないか。とすると、田中先生がペンディングにしていた尾張の守護も惟義であり、大内氏は7カ国の守護だったといえるのではないか。

伊賀と伊勢の守護。この2カ国はずっと前からの大内氏の勢力圏ですので、分かる。でも、あと5つが加わる。しかも伊勢と伊賀に近い越前・美濃・尾張のラインは日本列島を東西に分断するもの。東と西が争うなら、最も重要な国々となる。畿内に東から侵入するときの経路となる先の3カ国+伊勢・伊賀。これに対し、西の摂津に丹波は京都へ西から入ってくるときの経路ですね。となると、この「七カ国」は、京都防衛という明らかなテーマを持っているのではないでしょうか。

源頼朝を討伐するために、後白河上皇は源義経に「九国地頭」、源行家を「四国地頭」に任命しました。国々をまとめる、という概念を朝廷はもっています。ならば京都を防衛するための「七カ国守護」、これはあり得そうです。ただ、問題は「守護」という部分。守護を任命するのは将軍、つまり幕府です。幕府をリードする北条氏は、大内氏の力を警戒していたでしょうから、7つもの守護職を与えるはずがない。とすると、これは後鳥羽上皇のごり押しであり、私が信任する大内氏を「七カ国守護」に就けよ、と上皇が圧力をかけたのではないでしょうか。

大内惟義は北条氏の力が強くなると、鎌倉に嫌気が差したようで、在京して後鳥羽上皇に仕えるようになります。幕府には何も相談せず、上皇の命令を受けてさまざまに活動します。もっとも典型的なのはやはり軍事行動で、南都(興福寺と春日大社)・北嶺(ほくれい)(延暦寺)の僧兵の攻撃から京都を守っていたのです。

惟義は前回見たようになかなか優秀な武士でしたから、その活躍ぶりに注目した上皇が、来たるべき合戦の際の朝廷軍のリーダーとして、彼を起用しようと考えたのかもしれません。ただ上皇にとって惜しむらくは、惟義は承久の乱以前に病死しているようです。惟義の役割は子の惟信に引き継がれますが、この人はあまり優秀ではなかったようです。そのため、承久の乱の朝廷軍の武将として、大内惟信は戦場に赴きますが、あまり高い地位にはいなかったようです。

醍醐寺

京都市伏見区にある真言宗の寺院。本尊は薬師如来。醍醐山(笠取山)の上醍醐と、平地の下醍醐に分かれる。弘法大師空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝(しょうぼう)が上醍醐を開くと、修験の聖地として発展した。900年代初め、醍醐天皇はこの寺を深く信仰して堂塔の整備に努め、下醍醐が成立する。寺内の5つの院から座主が選ばれていたが、室町時代には三宝院が大きな力を得た。戦国時代に荒廃したが、豊臣秀吉・秀頼によって復興された。

【プロフィル】本郷和人

ほんごう・かずと 東大史料編纂(へんさん)所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

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