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猪木さんの素顔 馬場さんとの関係は? 論説副委員長・別府育郎

1979年8月、プロレスのオールスター戦でタッグを組んだジャイアント馬場(右)とアントニオ猪木さん=日本武道館(山内猛氏撮影)
1979年8月、プロレスのオールスター戦でタッグを組んだジャイアント馬場(右)とアントニオ猪木さん=日本武道館(山内猛氏撮影)

その迫力とスリルにおいて、アントニオ猪木の一番好きなファイトはスタン・ハンセンとのカードだった。タイガー・ジェット・シンでは演劇性が強すぎ、ムハマド・アリとの世紀の一戦はリアルが足かせとなり、息苦しかった。虚と実の絶妙な狭間(はざま)にこそ、猪木さんのリングはあった。

一般紙の社会面でも大きく報じられたのは昭和58年6月、ハルク・ホーガン戦でリング外に転落し、舌を出したまま失神して救急車で搬送された「事件」だった。入院先をひそかに抜け出し、1週間は行方不明と報じられた。

実はその「失踪」中の猪木さんに会っている。猪木さんは都内の会議室でスーツ姿に身を固め、力を入れていた壮大なバイオエネルギー事業の商談中だった。

当時、夕刊フジで情報を得て直撃し、写真も撮り話も聞き、「燃える商魂」と仮見出しをつけて原稿も書いたのだが、種々の事情が重なり掲載はできなかった。

事業は失敗し、巨額の負債を抱えて新日本プロレスの社長解任劇に発展するが、今にして思えば、環境対策のエコ燃料に先鞭(せんべん)をつける夢の大事業でもあった。

力道山門下で同時デビューした終生の好敵手、ジャイアント馬場さんに聞いたことがある。猪木さんとは仲が悪いのですか―。

「いいわけがないだろう」と答えた馬場さんは、ホテルのロビーで葉巻の煙をゆっくりと吐き、こう続けた。

「強くなろう、金を儲(もう)けよう、という夢は、2人共通のものだった。でも手段が違ったんだ。俺はプロレスでしか稼げない。あれは地位も名誉も、俺よりずっと上を求めた。レスラーにとどまらない何者かになろうとしたんだな」

引退後、猪木さんは国会議員となった。湾岸危機のイラクに乗り込んで日本人人質を救出した。平壌で格闘技興行を成功させて独自に訪朝を繰り返し、拉致問題の解決を訴えた。国会や外交の場を新たなリングとし、末期の病床の公開に至るまで、猪木さんは何者かになることを目指しつつ、やはり最後まで、闘うプロレスラーを演じきったようにみえた。

数年前、東京・勝どきの立ち飲み店で遭遇した。特別にイスが用意され、座ってなお他を圧する威容と大きさがあったが、一口ごとに「うまいなあ」を連発する笑顔は稚気に溢(あふ)れていた。あれが猪木さんの素顔だったのではないか。

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