村上変えた2度の震度7 野球できる「ありがたみ」噛みしめ三冠王に

3日に行われたDeNA戦の7回、シーズン56号となる本塁打で生還し記念ボードを掲げるヤクルト・村上宗隆=神宮球場(斎藤浩一撮影)
3日に行われたDeNA戦の7回、シーズン56号となる本塁打で生還し記念ボードを掲げるヤクルト・村上宗隆=神宮球場(斎藤浩一撮影)

最終戦でついに待望の一発が飛び出した。プロ野球で日本選手のシーズン最多記録を58年ぶりに更新する56号本塁打を放ち、さらに「令和初の三冠王」となったヤクルトの村上宗隆内野手(22)。6年前の高校時代には、観測史上初めて最大震度7の揺れが2度襲った熊本地震に直面した。母校の体育館は被災者の避難場所となり、通常の練習もままならなかった。そんな環境で改めて実感した野球ができるありがたみ、そして傷ついた故郷への思いが、希代の大打者へと成長する原点となった。(小川原咲、木下未希、野々山暢)

《熊本地震から6年です 生きてること、野球ができてること、感謝です》

震度7の「前震」から6年となる今年4月14日、村上は自身のインスタグラムにこう投稿した。添えられた写真は熊本県花のリンドウ。花言葉は正義、誠実、そして「あなたの悲しみに寄り添う」。

九州学院高(熊本市)2年のとき、熊本地震に見舞われた。練習を終え、自転車で下校中のできごとだった。野球部の全体練習は一時中止となり、避難所で被災者を支援した。練習再開後も、しばらくは余震の中でのプレーが続いた。

揺れの恐怖を感じながらの日々は、野球への向き合い方を変えた。主将だった村上は、チームメートにたびたび声をかけていた。「野球をやらせてもらえることに感謝し、被災者の力になるプレーをしよう」

プロに入り、スター選手の道を歩み始めてからも、そのスタンスに変化はない。3年前からは本塁打を打つたび、被災した地元のシンボル・熊本城に一定額を寄付。熊本城総合事務所の吉村裕仁副所長は「影響力のある人が寄付を続けてくれることは復興の大きな後押しとなっている」と感謝する。

プロ入りの際、仮契約を終えた村上宗隆は、再建中の熊本城をバックに記念撮影をした=平成29年11月12日午後、熊本市中央区(大橋純人撮影)
プロ入りの際、仮契約を終えた村上宗隆は、再建中の熊本城をバックに記念撮影をした=平成29年11月12日午後、熊本市中央区(大橋純人撮影)

「勝ち気な半面、下級生にも優しい」。村上の性格をこう評するのは、九州学院高で指導した坂井宏安さん(65)。自分が本塁打を打っても感情を表に出さないが、控えの選手が活躍するとハイタッチしたりヘルメットをたたいたりして大喜びしている姿が印象に残っている。

当時捕手だった村上とバッテリーを組んだ同学年の本田力斗さん(23)も「仲間を鼓舞する力をすごく持っていた」と振り返る。マウンドまで来た村上に「手を抜かずに一つ一つのことを最後までしっかりやりきろう」と、何度も背中を押されたことを覚えている。

首位を独走した今シーズンのヤクルトは、新型コロナウイルス感染などで主力選手が大量離脱する厳しい局面もあった。そんな苦しいときに孤軍奮闘し、アーチを描いてきたのが村上だった。本田さんは「熱い気持ちでチームを引っ張る姿は、高校時代と変わっていない」とたたえる。

歴史に刻む一発は、プレッシャーのかかるシーズン最終戦で飛び出した。「ムネ(村上)は高校時代も『ここぞ』というタイミングで打ってくれた。信じて最後まで見守っていた」。本田さんは昔を懐かしむように語った。

ひたむきな姿勢は、地元の野球少年のあこがれでもある。「自分が打ち立てた記録を鼻にかけず、チームの勝利を重んじる姿は子供たちのお手本」。村上が小学6年から中学3年まで所属していた「熊本東リトルシニア」の吉本幸夫監督(66)が話す。56号達成の瞬間はテレビの前で見届けた。「プレッシャーもあったと思うが、最後の最後に打つとは驚き。物語のようだ」。心から快挙を喜び、「本当に偉大な数字。『よく頑張ったね』と声をかけてあげたい」とねぎらった。

会員限定記事会員サービス詳細