令和阿房列車で行こう 鉄道開通150年記念

第一列車 稚内行<1>用事はなくても汽車に乗りたい

乗り込んだ新幹線「はやぶさ」。グランクラスに乗ったのは「秘密」
乗り込んだ新幹線「はやぶさ」。グランクラスに乗ったのは「秘密」

還暦とはよく言ったもので、60歳を過ぎると、どうも子供返りするものらしい。

小学生のころ、何の拍子か鉄道愛好家になった。余計な話だが、大抵の愛好家は、「テッチャン」と気やすく呼ばれるのを何よりも嫌う。ホルモンや蒲鉾(かまぼこ)じゃあるまいし。

一口に愛好家といってもさまざまな宗派がある。列車に乗るだけが喜びの「乗り鉄」、写真を撮るのに夢中になり、しばしば堅気の衆に迷惑をかける「撮り鉄」、時刻表を精読し、スマホの乗り換え案内を凌駕(りょうが)することに命をかける「読み鉄」、俳優の六角精児が広めた「吞み鉄」などさまざまあるが、当方はもちろん「乗り鉄」である。

そんな「乗り鉄」教の教祖が、内田百閒先生である。

昔は、就職面接で「尊敬する人は?」と聞かれるのが定番だったが、迷わず「内田百閒先生です」と答えた。「高校の先生?」と問い返されたらしめたもの。先生は教師の呼称だけではない。内定が出たのも同然だ。でも良い子はマネしないでね。1社しか試していないので。

「阿房(あほう)と云うのは、人の思惑に調子を合わせてそう云うだけの話で、自分で勿論阿房だなどと考えてはいない。用事がなければ、どこへも行ってはいけないというわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪に行って来ようと思う」 (「特別阿房列車」)

百閒先生は、高らかに宣言して敗戦からわずか5年後の昭和25年10月、何にも用はないのに、特急「はと」の一等車に乗って大阪に旅立つ。

当時は、連合国軍総司令部(GHQ)の占領下。戦時中からの食糧難が続いており、駅弁一つ買うにも外食券が必要な時代だった。しかも朝鮮戦争が勃発し、世情も騒がしかっただろうに、そんな野暮(やぼ)な話は一切出てこないのだ。

このとき、百閒先生61歳。無性に子供のころから好きだった汽車に乗りたくなったのだろう。その気持ちはよくわかる。

用事はないが、列車に乗りたい。どうしても。しかも、10月14日は、新橋―横浜間に日本初の鉄道が開通して150周年に当たる。当方も還暦で、「コラムニスト」という称号をもらいながらブラブラしている。湯布院の兄貴(本当の兄ではありません)からも「そろそろ本業に身を入れたらどうか」と訓戒を垂れられた。それもそうだ。

そこで、令和の御世に「阿房列車」を復活させたい、タイトルは「似非(えせ)阿房列車で行こう」でどうか、と三角編集局長に提案した。なお、先生の旅に付き従う平山三郎氏を「ヒマラヤ山系」君ともじった阿房列車の顰(ひそみ)に倣って、本連載の登場人物は仮名とした。念のため。

「いいでしょう」と、あっさりOKが出た。「でもタイトルはいただけませんな」。というわけで、「令和―」と相成ったわけだが、彼はどうやら本家を読んでいなかったらしい。

百閒先生は、一等車を偏愛しており、「令和―」も一等車に乗らねばならぬ。昭和35年に一等車は実質廃止されたが、令和の御世の一等車は、「はやぶさ」などに連結されているグランクラスである。料金は高いが、聞かれないことは黙っているのが一番。経費精算を見て、目を三角にしても後の祭り。

9月某日、はやぶさに乗って威風堂々、稚内まで出かけることにした。(乾正人)

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【プロフィル】内田百閒

うちだ・ひゃっけん 本名・内田栄造。明治22年、岡山市生まれ。昭和46年没。東京帝国大学独文科に学び、夏目漱石の門下に。海軍機関学校、法政大学教授を経て昭和9年から文筆業に。随筆の名手で、主な作品に「冥途」「旅順入城式」「百鬼園随筆」など。「阿房列車」シリーズは、新潮文庫で読める。

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