「元気があれば、何でもできる」 勇気与え続けた猪木さん

1979年8月、プロレスのオールスター戦でタッグを組んだジャイアント馬場さん(右)とアントニオ猪木さん=日本武道館(山内猛氏撮影)
1979年8月、プロレスのオールスター戦でタッグを組んだジャイアント馬場さん(右)とアントニオ猪木さん=日本武道館(山内猛氏撮影)

プロレスの枠を超え、政治やエンターテインメントなど幅広い活動で多くの人に親しまれたアントニオ猪木さんが1日、亡くなった。独自のパイプで重ねた北朝鮮との交渉は、ときに批判を浴びたが、「スポーツを通じて平和に貢献したい」との思いに貫かれていた。「元気があれば、何でもできる」。モットーとした言葉そのままに、勇気を与え続けた人生だった。

「世紀の茶番」に「思い出したくない」

力道山にスカウトされて入門したプロレス界をジャイアント馬場さんとともに支えた。「卍(まんじ)固め」「延髄斬り」などの必殺技はファンを魅了。異種格闘技戦など斬新な企画にも挑んだ。

モハメド・アリさんと対戦するアントニオ猪木さん =昭和51年6月26日、東京・日本武道館
モハメド・アリさんと対戦するアントニオ猪木さん =昭和51年6月26日、東京・日本武道館

国内外の注目を集めた昭和51年のボクシング世界ヘビー級王者、ムハマド・アリさんとの一戦。特別ルールで主要なプロレス技を禁じられ、試合開始と同時にマットに寝て足をキックする戦法を取り、対戦は引き分け。「世紀の茶番」などと酷評され、後に「一番思い出したくないこと」と振り返った。

挫折を経験しても、必ず這(は)い上がった。人気俳優との結婚と離婚、エネルギー問題に取り組んだ事業で背負ったといわれる数十億円の借金-。新聞やテレビがどのように報じても、「元気が一番」「元気があれば、何でもできる」と笑顔と気合を振りまいた。

多方面のイベントに招かれ、トレードマークの赤いマフラーをまとって声を張り上げる姿は、圧倒的な存在感を見せつけた。「闘魂ビンタ」を受ける希望者が続出する現象も生まれた。

スポーツ平和党出陣式に臨む(左から)坂口征二さん、藤波辰爾さん、アントニオ猪木さん、長州力さん
スポーツ平和党出陣式に臨む(左から)坂口征二さん、藤波辰爾さん、アントニオ猪木さん、長州力さん

北朝鮮訪問で処分も

政治家としても、異彩を放った。1期目の参院議員だった平成2年にはその行動力を発揮し、飛行機をチャーターして湾岸危機のイラクに入国。イラク側と交渉し、日本人全員を含む人質の解放につなげた。

師匠である力道山の縁から、北朝鮮との関係改善にも尽力。拉致問題が膠着(こうちゃく)する中で、日本政府とは別ルートで何度も訪朝。「スタンドプレーだ」といった批判が沸き上がり、参院の許可を得ずに訪朝したことで、30日間の登院停止の処分を受けたこともあった。

だが、ここでも「元気があれば、何でもできる」と意に介さず、前後して自らが理事長を務めるNPO法人「スポーツ平和交流協会」が平壌に事務所を開設。「(日朝間の)扉を開け、壁を少しでも崩す役割を果たしたい」と意欲を見せ続けた。

力道山の妻、田中敬子さんは23年、本紙に「(力道山は)朝鮮半島や日本の関係改善の〝架け橋〟になりたいという思いが強かった」と振り返り、「主人の遺志はいま、直弟子だった猪木さんが継いでくれている」と語った。「スタンドプレー」といった意識はなく、純粋に「架け橋になりたい」との思いだったのかもしれない。

闘病をユーチューブで公開

プロレスデビューから50年の節目を翌年に控えた21年、猪木さんは来し方を回想し、「50年はあっという間。半世紀は〝反省〟ばかりかな。あっはっは」と豪快に笑った。波乱に満ちた人生を笑い飛ばせるところが、魅力でもあった。

かつて政界で所属した日本維新の会の馬場伸幸代表は「スポーツマンらしい直球勝負の人だった。世の中を変えようという改革マインドも感じた」と悼んだ。

晩年は、心臓の病気「心アミロイドーシス」を患い、動画投稿サイト「ユーチューブ」で闘病の様子を配信。その姿がまた、見る人を勇気づけた。

アントニオ猪木氏死去

「ひとつの時代が終わった」 高田延彦さんら元格闘家がSNSで追悼 猪木さん死去

会員限定記事会員サービス詳細