【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら」(137)善良な人間のあっけない死

無期懲役囚の美達大和氏から贈られた勢古浩爾著『ただ生きる』(左)とHEAPS編集部編『トマトソースはまだ煮えている。』
無期懲役囚の美達大和氏から贈られた勢古浩爾著『ただ生きる』(左)とHEAPS編集部編『トマトソースはまだ煮えている。』

意図のこめられた2冊の本

毎年誕生日のころに、刑期8年以上かつ犯罪傾向の進んだ者のみが収容される「LB級刑務所」から本が送られてくる。

送り主は美達(みたつ)大和氏(昭和34年生まれ)。2人をあやめた無期懲役囚だ。12年前、彼が獄中で執筆した『死刑絶対肯定論 無期懲役囚の主張』(新潮新書)に興味を持ち、担当編集者に著者インタビューが可能かと尋ねたところ、彼の裁判を担当した弁護士に相談してほしいと言われた。

早速弁護士に電話で用件を伝えると、「本人の意思を確認してから返事をします」との答え。数日後、「喜んでお受けしたい」との返事をもらった。

弁護士に日程を調整してもらい、勇んでLB級刑務所を訪問した。面会者用の待合室には受刑者の母とおぼしき老女、別の受刑者の妻らしい中年女性がどんよりとした感じで座っていた。この独特の空気感は一生忘れないだろう。

私は先に待っている2人よりも早く係官に呼び出され、別室に導かれた。係官は事務的にこう言った。「あなたを面会させるわけにはいきません」

「新潮社の編集者が面会できて、なぜ産経新聞記者の自分ができないのか」と問うと、「所長の決定です。理由についてあなたに説明する義務は当方にはありません」と、取りつく島のない答えが返ってきた。

結局、彼とは会えないまま私は帰京することとなった。数日後、鋭角的で神経質そうな文字がぎっしりと詰まった詫(わ)びの手紙が届いた。これを機に彼とのやり取りが始まったのだ。そうして、無類の読書好きの彼が、毎年誕生日プレゼントとして、私が興味を示しそうな本を選んで送ってくれるようになった。獄中の彼がどんな本を読んでいるか興味のある方は、「無期懲役囚、美達大和のブックレビュー」というブログをご覧になるといい。

今年届いたのは、勢古浩爾さんの『ただ生きる』(夕日新書)とHEAPS編集部編『トマトソースはまだ煮えている。』(左右社)の2冊。黄昏(たそがれ)気分を漂わせたこのところの私のコラムを読み、勢古さんの本を選んだに違いない。もう1冊はアメリカのギャングカルチャーを扱った内容で、なぜこの本を選んだのかは、読んでみないことには彼の意図はわからない。自身の向こう見ずで過激な時代を思い出したのかしらん。

まず勢古さんの本から読み始めた。勢古さんの著書はこれまで随分読んでいる。「市井の凡人」として地に足のついた思索をする人だ。75歳になった勢古さんは相変わらず「市井の凡人」として、本を読み、映画やテレビを見、世の中と他者と自身をじっくり眺め、そこから何に忖度(そんたく)することなく、ゆっくりと思索をめぐらせる。全編に「きれいな空気」が漂う気持ちのよい本だ。まるで『エセー』の現代版ではないか。ここではたと気付く。だから美達氏はこの本を送ってくれたのだと。

ヴァグネルの「善良であれ」

《わたしはもう人類にほとんど絶望しかかっている。バカな人類は滅亡してしまえ、と思ったりすることもないではない。実際ろくでもないことばかりやっているではないか。何度でもいうが、人間は更生しない》と勢古さんは厭世(えんせい)主義者のようなことを書き、こう続ける。《しかし、同時に、こんなバカ者たちのせいで滅んではたまらんとも思う》。激しく同意する。

勢古さんは、〝人類のバカ〟に絶望しそうになるとき、常に思い出すという、フランスの宗教家、シャルル・ヴァグネルの『簡素な生活 一つの幸福論』にある言葉を紹介する。それは「善良であれ」だ。この世界が人間個々人のいやしい本能によって完全に支配されないのは、損得勘定を抜きに、傷つきながらも、善良であろうとする人々の意思があるからにほかならない。

《わたしはこの、悪がくり出す槍(やり)ぶすまのなかを、「善良さ」が鉢巻をしめて駆け抜けているイメージが好きである》と勢古さんは書き、ヴァグネルの言葉に背中を押されるように、自身が、ほんの少しでもいいから、善良であろうとする意思を持ち続けることで、安易に「絶望論」に逃げ込むことを拒否するのだ。

突き刺さる『わたしは、ダニエル・ブレイク』

同書の後半で、思わず声を上げてしまった。社会の底辺で生きる人々に光を当て続ける英国のケン・ローチ監督が2016年に撮った『わたしは、ダニエル・ブレイク』を勢古さんは紹介しているのだ。

少し脱線する。ローチ監督については苦い思い出がある。平成15年に高松宮殿下記念世界文化賞(演劇・映像部門)を受賞したさい、新作の『SWEET SIXTEEN』の撮影現場であるグラスゴーにまで行ってインタビューをしたのだが、さまざまなことに忖度して(何についてかは想像におまかせする)、「左翼」を自任する監督に迫り切れなかったのだ。それ以降、懺悔(ざんげ)の意味も込めて、日本で公開される作品は必ず見るようにしていた。

なかでももっとも深く心に刺さったのが『わたしは、ダニエル・ブレイク』だった。舞台はイギリスのニューカッスル。主人公は初老のダニエル・ブレイク。腕のよい大工だったが、心臓病で医師から仕事を止められてしまう。妻には先立たれアパートでひとり暮らし。給付金の申請をするものの、複雑な制度が彼を追い詰める。杓子(しゃくし)定規の職業安定所は、「求職活動をしていない」と、申請をはねつけるのだ。医師から仕事を止められているにもかかわらずである。パソコンを満足に操作できず、求職申告でも悪戦苦闘する。そんな彼は、職安で知り合った子供2人を抱える若いシングルマザーのケイティを、親身になって支える。が、心臓発作であっけなく死んでしまう。それだけの話だ。

「楽しめる作品」とは言わないが、見た者は《悪がくり出す槍ぶすまのなかを、「善良さ」が鉢巻をしめて駆け抜けているイメージ》そのものの人物、ダニエル・ブレイクの姿を生涯忘れることはないだろう。心のなかにダニエル・ブレイクを住まわせておくのはとてもすてきなことだと思う。

折しもローチ監督の2作品、『わたしは、ダニエル・ブレイク』と『家族を想うとき』が、新宿武蔵野館、kino cinema横浜みなとみらいにて10月14日から2週間限定でリバイバル上映される。


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