話の肖像画

アルピニスト・野口健<26> ともに気が強かった「2人の母」

義母、容子さんと(野口健事務所提供)
義母、容子さんと(野口健事務所提供)

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《エジプト人のモナさんと離婚した外交官の父、雅昭さんがイエメン大使時代に再婚した女性は、京都出身の容子(ようこ)さん。当時、39歳だった》


まだ30代で、停学中の高校生(野口さん)と大学生(兄)の母親になったのだから、大変なことも多かったと思います。

でも、母ちゃん(モナさん)がいなくなってオヤジと僕の2人暮らしが続いたとき、どこかでだらしない生活になっていました。それを義母(容子さん)はビシバシと厳しく、叱ってくれたのです。

「お父さんに対する口の利き方がなっていません」

「(父親に)借りたお金はちゃんと返しなさい」

「朝は早く起きて、一緒にごはんを食べること…」

僕も厳しくやられましたが、オヤジも同時に怒られる。「息子の態度がよくないのはアナタが悪いのよ」って。そして2人して謝る(苦笑)。


《結婚して間もないころ、湾岸戦争が勃発(1991年)。イエメンでも西側諸国への反発が高まり、とうとう日本大使公邸に、手榴弾(しゅりゅうだん)が投げ込まれるテロ事件が起きた》


オヤジはそのとき、大使館にいて留守。母ちゃん(容子さん)は2階のベッドに隠れていたらしい。アメリカの在外公館は米軍の海兵隊が守っているけど、日本の場合、警備はイエメン人の兵士。爆弾事件のときには、早々と逃げてしまっていました。

その事件があって、日本企業の駐在員らは妻子を日本へ帰すことになった。オヤジは母ちゃんにも帰るよう諭しましたが、ガンとして聞かない。「私は大使の妻です。アナタを残してひとり帰るわけにはいきません」。私もここで死ぬ覚悟があります、って…強い人だな、と感心しましたね。結局、イエメンに残った邦人の奥さんは母ちゃんだけでした。


《野口さんは容子さんと仲良くなって、折々には叱咤(しった)激励されることも。3度目のエベレスト挑戦(1999年)の前にも「強烈な手紙」が…》


それまでに2度挑戦して失敗している僕に対して、甘いことや優しい言葉は一切なかった(苦笑)。その内容ときたら、「今度が最後の挑戦よ。ダメならエベレスト挑戦なんか、とっととやめなさい。しっかりケリをつけてきなさい」って。

それが僕には何よりの励ましになった。いい影響があったのでしょう。ついに登頂に成功することができました。

母ちゃんとは基本的にずっと仲がよくて、何でも話せる関係になったけど、病気のために、55歳の若さで亡くなってしまう。早すぎましたね。


《実母であるモナさんも「気が強かった」。幼いころ、いじめられて泣いて帰ってきた野口さんを「やり返してこい」と家に入れなかったエピソードなどはすでに書いた通りである》


母ちゃん(モナさん)とは離婚後もときどき会っていたけど、やつれてすごく年をとった感じがしました。(不倫相手だった)エジプト人の教師と再婚したけど、うまくいっていないようでしたね。親類や姉妹がいるアメリカやカナダを転々としていて、最後に会ったのはもう10年くらい前でしょうか。

父親違いの弟と妹がいるのですが、あるとき母ちゃんから「ケニー(野口さんのこと)、弟たちの学費を出してくれないか」と頼まれて、しばらく援助していました。ほとんど会ったこともない弟たちですけどね。

でも、最近になって思うのは、気の強い性格は僕にもしっかり引き継がれている。よくしゃべることも母譲りかもしれません。(聞き手 喜多由浩)

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