話の肖像画

アルピニスト・野口健<24> じいちゃんと戦争、そして遺骨収集

祖父、省己さん(前列左端、その後ろが本人)と(野口健事務所提供)
祖父、省己さん(前列左端、その後ろが本人)と(野口健事務所提供)

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《父方の祖父は、野口省己(せいき)さん(1911~99年)。陸軍士官学校(46期)、陸軍大学校(56期)と陸軍のエリートコースを歩んだ元参謀。第56師団、第33軍参謀として「ビルマ作戦」に参加する。〝じいちゃんっ子〟だった野口さんは祖父からいろいろ話を聞き、大きな影響を受けることになる》


僕が幼いころ、祖父母と母ちゃん(モナさん)との折り合いは悪かった。文化や言葉の違いから意思疎通が難しかったのではないかと思う。とりわけ、ばあちゃんと、かあちゃんの「嫁姑(よめしゅうとめ)関係」がよくない。

そのせいか、孫である僕にも厳しくあたるようなこともあって、怒った僕がばあちゃんに計算機を投げつけたことは前に話した通り。そのばあちゃんが重病を患い、亡くなる前の数日、ずっとそばにいて口に水を含ませてあげた。ひどいことをした僕なりの罪滅ぼしというか、「最後は仲直りをしたい」と思ったのかもしれません。

じいちゃんは、僕の看病の様子をみていたらしい。すっかり喜んでくれて、じいちゃんは僕にいろんな話をしてくれるようになった。後に僕がイギリスの高校を停学になって日本へ一時帰国して、登山へ関心を持ち始めたときも、「山か、いいじゃないか」って一番、応援してくれました。


《ビルマ作戦のうち、最も悲惨な結果に終わったのがインパール作戦だった。軍司令官の暴走などによって無謀な侵攻計画が強行され、補給もないまま、参加した約8万5千人中、3万人以上が戦死・戦病死するという大惨敗となった。省己さんが直接、インパール作戦にかかわったわけではないが、傍らにいた者として作戦を止められなかった悔悟を著書につづっている》


じいちゃんは参謀として最後はビルマ(現ミャンマー)にいた。悲惨な戦争体験を他の孫にはしないのに、なぜか僕だけにはしてくれる。「たくさんの兵隊を死なせてしまったのに、私は生き残ってしまった」とつらそうに話してくれました。

じいちゃん自身は長生きをして、孫にも囲まれて幸せな人生を送ることができたと思いますけど、やっぱり、戦争で死なせてしまった元部下のことが最期まで頭を離れなかったのだと思う。僕が戦没者の遺骨収集を始めたのも、じいちゃんから話を聞いたことが大きい。それがなければ、たぶん遺骨収集をしていなかったでしょうね。


《省己さんは戦後、自衛隊に入り、幹部になった。高校卒業後、自衛隊入りを考えていた野口さんは省己さんに相談する》


そのときもうじいちゃんは自衛隊を退官していましたが、僕が入隊を希望していることを喜んでくれました。

ただ、じいちゃんのアドバイスは、(幹部自衛官を養成する)防衛大学校へ入るか、さもなくば、一般大学を卒業して、幹部候補生の学校へ入れ、というものでした。

じいちゃん曰(いわ)く、「自衛隊は階級社会だ。防大などを出れば、20代半ばで士官になれる。高卒ならその地位に達するのは40歳前のことが多い。年下の上官に『きさま』と呼ばれるんだ。それをお前はがまんができるか。自衛隊に入るのならばそっちの道(防大など)を選べ」というのです。

僕は「たぶんがまんできない。ブン殴るだろうって」。だけどね、〝落ちこぼれ〟の僕が、防大に入れるわけがないのです。(東大出の)オヤジもそうだけど、じいちゃんもエリートコースを歩んできた。どうも勉強ができない人間は理解できないらしい(苦笑)。(聞き手 喜多由浩)

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