興國高校サッカー部監督の内野智章さん(43)は、毎年のようにプロ選手を輩出する高校サッカー界のカリスマ指導者として知られている。目の前の勝利よりも将来の大成を考えた独自の理論と手法を確立し、ワールドカップ(W杯)日本代表入りが期待されるセルティック(スコットランド)の古橋亨梧(きょうご)選手も教え子の1人だ。だが、プロになれるのは、ほんのひと握り。「いくつになっても、部員たちにはサッカーを楽しんでほしい」と話す内野さんに、約300人の大所帯を束ねる心構えを聞いた。
ボロカスに怒った選手ほど使う
「こんなん送ってくるんですよ。ふざけてると思いません?」
インタビュー取材の際に内野さんが見せてくれたスマートフォンには、1人の部員がおどけた様子で土下座する写真があった。部員と監督、コーチらで共有しているLINE(ライン)グループの画像。「●●容疑者、ユニホームを忘れて体操服を持ってくる。内野裁判官によって釈放される」(●●には部員の実名)-との文章が添えられていた。
校外の堺市立サッカー・ナショナルトレーニングセンターで行われた練習でのこと。全員がユニホームを着て臨む予定だったが、ある部員が間違えて体操服を持ってきたのだ。「なにしてんだよ」と叱ったことに対するユーモアあふれる反応が、その写真だった。
ただ、試合中に中途半端なプレーをしたり、チャレンジしなかったことに対しては、激しい口調で叱責する。「いやもうボロカスです。教える時間が足りない分、ピッチでそうやって厳しく要求しないと、次のステージで活躍できない。ただ、ピッチ外では僕が一番ふざけています。一番アホなことを言って、アホなことをして。オレたちひょうきん族と映画のアウトレイジのビートたけしさんの違いみたいな…。ピッチでの厳しさで潰れないような環境をつくっているんです」と内野さん。
その上で重要視しているのは、怒った部員ほど次の試合で使うことと、なぜ怒ったのかを明確にすることだ。「できるようになったら、めちゃくちゃほめる」のも徹底している。
「めちゃくちゃ怒った部員は絶対に、次の試合は先発させます。怒って外しちゃうと、萎縮しちゃうので。できるようになるまで怒られるし、試合に出さされるし、自分がしないとチームも負けるし…。違う意味で、もうやるしかないみたいな環境をつくっています」と理由を説明した内野さんはこうも強調する。
「部員たちが腑(ふ)に落ちないままでは終わらせないようにしています。何で怒られてるのか分からへんというのが、一番ストレスでありフラストレーションなので。例えばバーンと突き放しても、腑に落ちてなかったらあかんなと思って、その日の夜に『俺はこういう理由で、お前にボロカスに言ったんだ』みたいなラインを送る。怒った部員に対しては、ちゃんと納得するまでは、やりきります」
やりきることで、部員たちも、腐らずに努力を続けられる。「やっぱり、成功体験なしにモチベーションは出ない。やったらできたわっていう体験がないままだと、落ちていく一方になるので」とフォローアップの大切さを話した内野さんは、指導者の覚悟をこう口した。
「成功するところまで責任取られへんのやったら、怒るなって思うんですよ」
サッカーの楽しさ伝える伝道師
約300人もの部員を抱える興國高校サッカー部は8つのチームに分かれ、それぞれに専属のコーチがついて活動している。サッカーをしたければ、ほぼ誰でも入部できるシステムのため、プロを目指す部員から初心者に近い部員までレベルはバラバラ。だが、よくある単純なピラミッド型の組織ではない。全体を統括する内野さんは「レベルに応じたところでサッカーが楽しめるようにしています。一方で、モチベーションコントロールもありますが、良ければ一気にトップチームに入れる仕組みになっているんです」と打ち明ける。
8チームはA~Eの5チームと、1年生のA~C。パートナーシップ協定を結ぶJリーグ、セレッソ大阪から派遣されたコーチが責任を持って各チームを指導している。トップのAチームから多くのプロ選手を輩出することがクローズアップされてきたが、内野さんは「また別のうれしさがありましたね」と、興國高校を巣立ったある兄弟のエピソードを紹介した。
「お兄ちゃんがEチームで卒業したんですよ。一番下のチーム。文武両道で頑張って国立大学に合格しました。それで、弟も興國高校に来てくれたんです」
同じようにEチームで過ごした弟が卒業するときのこと。あいさつに訪れた母親から「兄弟そろってお世話になりました。(他校の兄の同級生と)比べたときに、ウチの子が一番幸せでした」と感謝された。聞くと、中学時代に一緒にサッカーをしていた兄の同級生が、いろいろな高校に進学したのだという。親同士で情報交換すると、上手な同級生は試合に出ていたが、そうじゃない同級生は満足に練習もさせてもらえていなかった。「弟の進路は、興國高校以外に選択の余地はありませんでした」。母親の言葉が心に染みた。
「正直言って、お兄ちゃんも弟もトップチームでプレーできるなんて微塵(みじん)も思っていなかったんです。だけど、一番下のカテゴリーでも毎日、楽しく練習できた。試合も出れた。(海外研修旅行で)スペインに行って(バルセロナでプレーする)メッシも見れた…。究極の目標はサッカー好きを増やすことなので、ある意味Jリーガーを出すよりも感慨深かったですね」。そう内野さんは述懐する。
インタビュー取材を行ったのはちょうど、興國高校サッカー部に興味のある中学生が練習参加する日だった。実際に入学するかどうかは分からないが、内野さんは積極的に受け入れている。理由を尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「結果的に興國高校に来なかったとしても『楽しかった』と言ってくれる人を増やせば、聞いた人がまた来てくれるかもしれない。今の時代、口コミっていうのが結構大きいと思っているので。全ての人に興國メソッドに触れてもらい、そこで共感してもらえたら、興國高校に来てくださいというスタンスです」
誰でも歓迎の姿勢を貫く根底には、スペインで見た光景がある。バルセロナが勝利した試合後、メッシのユニホームを着た老夫婦が街で手をつないで楽しそうに歌を歌っていた。「まだまだ勝てないなと思いました。そうなろうと思ったら、ずっとサッカーが好きじゃないといけない。若い頃にサッカーしたけど走らされて、しごかれて、しんどくて…。そんなんだと、思い出してもうんざりするってなるじゃないですか。そうならないようにしたいんですよ」。内野さんは、部員たちにサッカーの楽しさを伝える伝道師の役割も担っている。
目指すのは富士山ではなくエベレスト
スコットランドの名門、セルティックで活躍し、今冬に開かれるワールドカップ(W杯)カタール大会での日本代表入りが期待される古橋選手は高校時代は5番手の扱いだった。だが、中央大学を経て当時J2のFC岐阜に入団し、J1のヴィッセル神戸からセルティックへとステップアップした。恩師である内野さんは「古橋選手が興國高校の最たるモデルケースになっている」と力説する。
古橋選手の同学年からは2人の高卒Jリーガーが誕生した。一つ下の学年には、ヴィッセル神戸と横浜マリノス入りする選手がいた。古橋選手はその次の存在。「だけど結局、一番成功したのは古橋選手。その4人のうち、2人はもうサッカーをやめちゃっているんです。1人は前十字靱帯(じんたい)を2度痛めました。同学年の選手は今、(アマチュアの)地域リーグでプレーしています。もう1人はJ2のヴァンフォーレ甲府にいます」と明かした内野さんは「その差って何だろうとなったときに、19、20、21歳でがっつり試合に出ていた古橋選手と、試合に出れなかったJリーガーの違いじゃないかってことですよね。そこで結局、実力がひっくり返っちゃってるんです」とひもとく。
そうした理由で、内野さんは最近、興國高校を卒業してすぐにプロとなるよりも、基本的には大学経由でJリーグ入りする方を勧めているのだという。「プロに行く部員には毎回、この話はするんです。Jリーグもまだ年功序列的なところがあって、高卒の選手が気持ちよく試合に出られる機会が少ないと思います」と内野さん。ただ一方で、部員の気持ちをおもんぱかり、こうも指摘する。
「夢じゃないすか、Jリーガーになるっていうのは。それが目の前に来ているのに、断って大学に行くっていうのも勇気のいる選択ですよね」
もちろん、中央大学を経てプロ入りした古橋選手が飛躍的に成長できたのは、大学時代に出場機会に恵まれたことだけが要因ではない。ゴール前への鋭い抜け出しで得点を量産する古橋選手のプレースタイルの根源として内野さんが挙げるのは、興國高校時代に2度訪れたスペインへの海外研修旅行だ。「技術的なこととか動き出しとか、そういうのはスペインで教わったことが多分、ベースになっていると思います。あの(守備ラインの)背後の取り方は、スペイン流の取り方なので…」と解説する。
毎年のようにプロ選手を輩出しながら、興國高校が全国高校サッカー選手権大会の出場切符を手にしたのは令和元年度の一度しかない。これも、目の前の勝負よりも選手の将来を優先した結果。根底には、こんな内野さんの考えがある。
「選手権は選手権で、日本の文化としてとてつもなく大事だし、守っていくものではあるのですが、監督たちのエネルギーの矛先を古橋選手のようなプレーヤーに向ければ、欧州で活躍する選手はもっと出てくるんじゃないでしょうか。日本で(世界的な名手として知られる元スペイン代表の)イニエスタ選手を育てたらどうなるか、というところを目指せば、世界と戦えると思うんです。日本の全ての指導者、Jリーグもそうだし高校もそうです。富士山登頂ではなく、エベレストに登ろうというところに目が向けば…」。高校サッカー界屈指のカリスマ監督の目線は、世界最高峰を捉えている。(聞き手 編集委員 北川信行)
◇
うちの・ともあき 昭和54年、大阪府堺市出身。和歌山・初芝橋本高から高知大学を経て当時、日本フットボールリーグに所属していた愛媛FCに加入。退団後、大阪に戻り、関西社会人リーグの奈良・高田FCでプレー。平成17年に興國高の非常勤講師となり、翌年から体育教員、サッカー部監督に就任した。同校はこの10年間で約30人のJリーガーを輩出している。
カリスマ指導者との対話㊤「ラガーマンでは試合に勝てない」に進む