話の肖像画

アルピニスト・野口健<14>25歳で世界記録「植村さん、やっと登れました」

1999年、3度目の挑戦でエベレスト登頂に成功(日の丸を持っているのが本人)=野口健事務所提供
1999年、3度目の挑戦でエベレスト登頂に成功(日の丸を持っているのが本人)=野口健事務所提供

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《1995年までに世界7大陸最高峰のうち、エベレスト(標高8848メートル)を残して6つを登った野口さん。事前トレーニングのためにヒマラヤへ通い、96年、いよいよチャレンジするはずだったが…》


ニュージーランド人が率いる登山隊に参加を申し込んでいました。しかしどうしてもピンとこなかった。なにか嫌な予感がしたんです。多額の前金を払っていたのですが、登山隊への参加をキャンセルしたんです。この登山隊には、日本人女性としては田部井淳子さんに続く2人目となる7大陸世界最高峰登頂を目指す難波康子さんも参加していました。5月、難波さんが見事に登頂に成功した、というニュースを聞いて僕は猛烈に後悔することになります。「やはり(自分も)参加すべきではなかったか」と…。

ところが、事態は一変。下山途中に難波さんらが遭難死したという。ショックでした。もしも、僕がこの隊に参加していたら、難波さんらと行動をともにしていただろう。ならば一緒に遭難したに違いない。

これがきっかけだったでしょうか。僕は自分の「直感」を信じるようになったのは。すでにスポンサーからは登山費用を支援してもらっていたので、一社一社平謝りでしたが、どうしても参加することにためらいがあったのです。結果的に僕の直感は間違っていなかった。それからは迷ったときの判断の決め手にするようになったのです。


《結局、最初のエベレスト挑戦は97年になった。ニュージーランド人が隊長をつとめる国際公募隊に参加。チベット側から登頂を試みるも7800メートル地点で断念する。翌98年はネパール側から再挑戦するも、最終キャンプ付近で悪天候に見舞われ、今度も頂上には立てなかった》


僕は厳しい状況に追い込まれていました。99年、再びネパール側から、3度目のエベレスト挑戦は決めたものの、周囲の反応は微妙です。それまで同行取材をしてくれていたテレビ局もクルーの陣容を大幅に圧縮。資金提供してくれるスポンサー回りも気が重かった。3度目ともなれば、注目度や期待もだんだんとしぼんでゆくのを感じますからね。

「3度目の挑戦。おそらく最後。失敗したら次はない」。そんなプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、僕は決意を新たにします。エベレストはやはり特別な山。アタックのチャンスは多分1度しかない。技術や体力だけではなく、ツキにも恵まれないと登れません。そして、エベレストの山頂を目指すということは「自分の生命を懸ける」こと。今度こそ、自分自身が納得したときにアタックをかけようと決意しました。


《ベースキャンプ滞在中、ビッグニュースが世界をかけ巡る。24年に消息を絶ったイギリス人登山家、ジョージ・マロリーの遺体がチベット側で見つかったのだという》


彼が消息を絶つ前に世界で初めて頂上に登ったのか否か? もしもカメラに写真が残されていれば、歴史が塗り替えられることにもなりかねません。僕は感慨深く、エベレストの頂を見つめました。あの向こう側(チベット側)に75年前に倒れた登山家がいるんだ…。


《5月13日、野口さんはついにエベレストの頂上に立つ。25歳での7大陸最高峰登頂の世界最年少記録達成、10年間こだわり続けた挑戦だった》


僕は胸の中で植村直己さんに報告した。「植村さんの本に出合って10年目。何度も挫折しかけましたが、やっと登れました」(聞き手 喜多由浩)

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