古墳時代中期の5世紀代、中国南朝に外交使節を送った倭国(日本)の王がいた。讃(賛)・珍(彌)・済・興・武。六朝(りくちょう)時代の史書「宋書」などに名前が記された「倭の五王」は、日本書紀のどの天皇にあたるのか。古代史上の大きな謎に、新納(にいろ)泉・岡山大学名誉教授(考古学)がこれまでになかったアプローチ方法で、光を当てた。昨秋、会誌「考古学研究」270号に発表した「『日本書紀』紀年の再検討―応神紀・雄略紀を中心に」。日本書紀の対外関係の記事と、宋書や広開土王(好太王)碑文などの海外史料との直接比較によって、応神天皇や雄略天皇の在位年を割り出し、「讃は応神天皇」と推定した。議論が百出する問題の決定打となるのか。新説に注目が集まる。
比定、室町時代から
「倭の五王」がどの天皇にあたるのか。その比定を最初に行ったのは室町時代中期の僧、瑞渓周鳳という。その著「善隣国宝記」で、日本書紀(書紀)にある即位年をあてはめ、讃を允恭天皇とした。江戸時代には儒学者の松下見林(けんりん)が五王の宋への遣使の年代を、書紀の允恭天皇から雄略天皇にあたると想定し、漢字の類似性から讃=履中、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略各天皇とした。儒学者で政治家の新井白石は、書紀の紀年(ある紀元から数えた年数)に否定的ながら、見林と同様の比定をしている。