【日曜に書く】論説委員・長戸雅子 銃撃事件 臆せず裁判参加を

犯行直前、安倍晋三元首相の背後で様子をうかがう山上徹也容疑者(右から2人目)=7月8日午前、奈良市

こんなふうに、あっけなく日常―前日と変わらぬと思っていた日々―は切り裂かれていくのか。選挙前のありふれた光景が、わずか数秒もしくはそれ以下の凶行で非日常へと転じた。

奈良県で参議院選挙の応援演説をしていた安倍晋三元首相が銃撃され、死亡してから間もなく2カ月となる。託された任務を遂行していた最中での落命は殉職といえるだろう。殉職ほど切ない死もまたない。

安倍氏の演説姿をとらえていたテレビカメラの焦点が2度目の発砲の瞬間、大きくぶれた―。あのときまで、だれが安倍氏と山上徹也容疑者(41)の人生が、こんな形で交わるなどと思っただろうか。

歴史的事案への危惧

現行犯逮捕された山上容疑者は殺人容疑で送検され、刑事責任能力の有無を確認するため11月末まで鑑定留置に付されている。検察が責任能力があると判断すれば山上容疑者は起訴され、重大事件であることから裁判員裁判となる可能性が高い。

裁判員裁判が始まって今年で13年。元首相という日本国民の誰もが知る著名な政治家が被害者という前例のないケースだ。実施されるとしても、いつのことになるか不明だが、どんな事態が予想されるだろうか。

制度開始当初に比べて最近は裁判員に選ばれても辞退する率や選任手続きに現れない人も増えている。「人が亡くなるなど重大事件になるほど参加に消極的な傾向がある」(裁判所関係者)そうだ。

弁護士らでつくる市民団体「裁判員ネット」代表の大城聡弁護士も「裁判では責任能力の程度をめぐる攻防や容疑者の成育歴をどこまで考慮するかが焦点となるでしょう。ある程度の長期化も予想されるので辞退率が高くなることを懸念しています」と語る。

「元首相には熱心な支持者も反対派もいて、社会批判を浴びる宗教団体の件も絡んでいる。物を言いたい人は多いはずで裁判員が不当な接触を受けないよう、身体的、精神的な安全の確保、裁判官によるサポートがこれまで以上に重要です」と指摘したうえで、「まさに主権者である国民が担うべき事件で、歴史に残る裁判員裁判になるでしょう」と断言する。

報道ではなく法廷

裁判員裁判を想定した危惧は既に地元弁護士会から発せられた。奈良弁護士会は8月、銃撃時の映像が繰り返し放映されていることや容疑者の供述が連日、大量に報道されているとして、「刑事手続きの根幹に触れる問題を含んでいる」とする会長声明を出し、報道機関に「節度ある取材活動および報道姿勢」を求めた。

しかし、自身も報道が過熱した事件で裁判員を務め、裁判員経験者によるコミュニティー、LJCCを主宰する田口真義さん(46)はこう語る。

「裁判員の席に座ると、意外なほど外部の情報に流されない自分に気づきました。他の人も同様でした。被告の供述や関係者の証言から事件の新しい側面が浮かび上がる。裁判員の心証をつくるのは報道ではなく法廷です」

田口さんが裁判員を務めたのは、被害者ではなく被告が元俳優の著名人という保護責任者遺棄致死罪事件で、裁判所の出入りには警護がついた。

「耳目を集めた大事件の裁判でしたが、一方で裁判員がプレッシャーを感じるほど警備を厳しくしてしまっては裁判員らしい彩りのある判決は導き出せない。そのための環境整備が裁判所の課題です」と注文する。

国民の名において

国民の名において―。日本の裁判員制度のモデルの一つとなったドイツの参審員裁判では、判決の前、裁判官が必ずこう宣告する。「国民の声が入っていること、国民の承認を得て出した判決であることに重要な意味がある」(ドイツの裁判官)からだという。

日本を代表した政治家が犠牲になった事件だからこそ、この理念は今、深く響く。

裁判員裁判の経験を持つ現職の刑事裁判官は「動機への評価や量刑など、さまざまな社会経験を持った方々と審理をすることで裁判官も自信をもって判決を出せるはず」と語る。

事件が起きた地域の人が参加して行われる裁判は、事件で傷ついたコミュニティー―今回は日本社会そのものかもしれない―を回復に向かわせる大切なプロセスだ。読者の方がもし裁判員候補に選ばれたら、どうか臆せずに参加してほしい。(ながと まさこ)

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