本郷和人の日本史ナナメ読み

信濃の名族、平賀氏㊤馬の産地、押さえた源氏の重鎮

伝武田信玄晴信像(模本、東大史料編纂所蔵)
伝武田信玄晴信像(模本、東大史料編纂所蔵)

ぼくは自称「日本一、日本史が好きな研究者」です。20歳の時に本格的に歴史学を学び始めて爾来(じらい)40年、日本史に飽きた、ということがない。おかげさまで毎日、楽しく日本史の勉強を続けることができています。

歴史が好き、と一口にいっても、興味のある対象は人それぞれ。国家システムの解明に挑戦し続ける人、庶民の暮らしの復元に挑む人、昔の人の美意識を探求する人。ぼくの場合は、歴史上の人間に興味がある。人付き合いが下手で現実の人間とうまくやれない分、過去の人間との対話を楽しみたいのかもしれません。

ですので、ぼくが「よし! われながら良くできたぞ!」と自身の研究成果に手応えを感じる瞬間というのは、これまであまり知られていない人間に光を当て、彼らの歴史的立ち位置に言及できたときです。今回は、口はばったい言い方をすると、ぼくがその存在と活躍を発見した源氏の一族、平賀氏についてお話ししようと思います。

長野県軽井沢は日本を代表する避暑地ですが、あの地域は自然食の宝庫としても知られています。歴史と伝統がなければ食文化は育ちませんので、諏訪地方などとともに、古くから開発が進んでいた土地柄なのだと推察されます。

南北朝時代、この地には伴野荘(とものしょう)という荘園がありました。大徳寺領でしたが、1335年の年貢高が驚異の8千貫!。鎌倉時代で年貢高500貫といえば、その荘園は広大であると目される。これはあくまでぼくの実感に過ぎませんが、有名な御家人の本領の広さは、中央値が200貫くらいでしょうか。たとえば肥前国神崎荘といえば、有明海に面していて、広大で肥沃(ひよく)な荘園として有名です。荘域にはあの吉野ケ里遺跡も含まれます。平家はこの荘園を入手し、日宋貿易の拠点にしました。まさに要地。その神崎荘の年貢が3千貫。伴野荘の数字がけた違いであることがお分かりでしょう。

鎌倉時代までの武士は、丘陵地を好んで開発しています。関東平野でも濃尾平野でも、地図帳を広げて黄緑色の平野部は敬遠される。土地が低いので、しばしば水浸しになるということらしい。防御面でも弱い。少し山あい、秩父であるとか、土岐・多治見地方に人気が集まり、武士の本場として選ばれ、開発が進む。軽井沢周辺もそういうことなのかな、ぼくの思考はそこでずっと止まっていましたが、先日、急に閃(ひらめ)いた。そうか、馬だ。

日本列島で馬というと、第一が陸奥の馬、第二が信濃の馬。とくに軽井沢近くの望月は「望月の駒」として馬の名産地です。馬1頭は高級車と同じ値段で取引された。つまり1頭だけで600万から800万円。この名馬を全国に送り出すセンターとして機能していたから、伴野荘はこの上なく富裕だったのではないか。

そしてこの伴野荘にあたる地を本拠としていたのが、平賀氏なのです。源氏のスーパースター・八幡太郎義家の弟である新(しん)羅(ら)三郎義光は、茨城北部、福島南部に勢力圏を築きました。彼の嫡流は北常陸の佐竹氏。また、彼の子たちは甲斐の南部と信濃の辺りにも進出し、武田家や平賀家になっていきます。

その一人である平賀義信は、尾張源氏の八島重成とともに、『平治物語』に源義朝の「従子」として登場します。「従子」という聞き慣れぬ言葉が何を指すかは正確には分かりませんが、源氏一族のうちでも近しい者、くらいの意味ではないでしょうか。

ご存じのように平治の乱で、義朝は平清盛に敗れ、再起を図るために関東めざして逃げ出しました。この時の義朝一行は、義朝と子供たち、すなわち義平・朝長・頼朝、それに義朝の腹心・鎌田正清、「従子」たる義信と重成、力自慢の金王丸(こんのうまる)、八幡太郎義家の末子・源義隆。このうちまず比叡山の僧兵に襲われて義隆が落命。ついで頼朝がはぐれます(すぐに捕縛され、伊豆へ流罪)。一行はなんとか美濃の青墓宿(あおはかのしゅく)にたどり着きますが、ここで重傷を負っていた朝長が自害。義平は兵を集めるために北陸へ(のち捕らえられ処刑)。そこに敵が襲ってきて、脱出を図るも重成が戦死。

4人になった一行は、正清の舅(しゅうと)である知多半島の長田忠致(おさだ・ただむね)の屋敷に逗留(とうりゅう)しますが、忠致は恩賞に目がくらんで義朝と正清を殺害。義信と金王丸は囲みを破って脱出。義信はなんとか平賀の地に帰り着いたと思われます(金王丸のその後は不明。義経を襲った土佐房昌俊(とさのぼう・しょうしゅん)になったという説あり)。

平家全盛の世にあって、義信がどうしていたのかは史料がありません。やがて頼朝が挙兵し、踵(きびす)を接して、木曽義仲が立ち上がった。平家は義仲を討ち取るために越後の城氏に出陣を命じます。城氏の大軍を、義仲は横田河原(ほぼ後の川中島)に迎え撃ち、勝利して北陸へと進撃しました。このとき、義仲の軍勢は①木曽軍、②佐久軍、③甲斐軍、という構成を取っていた(『玉葉(ぎょくよう)』)。佐久軍の中心にいたのは、平賀義信だったに違いありません。そして義信はこの戦いの後に義仲と別れ、頼朝に臣従すべく、鎌倉に向かうのです。

■平賀と戦った武田信玄

信玄の父、信虎は甲斐一国をおおよそ平定した後、信濃に出兵した。このとき、甲府から西北に進み、現在キャベツやレタス栽培で知られる野辺山高原を通って佐久へ侵攻した。ここで武田軍と対峙(たいじ)したのが、海ノ口城の平賀源信(玄心、源心とも)であった。『甲陽軍鑑』によれば、初陣の信玄が知謀を働かせて源信を討ち取ったという。源信は大井氏の一族というから、鎌倉時代の平賀氏の遠い親戚。なお江戸時代の平賀源内は源信の子孫を称したという。

【プロフィル】本郷和人

ほんごう・かずと 東大史料編纂(へんさん)所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

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