モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら

(134)「戦争は平和なり」…「プーチン農場」の行方

モスクワのクレムリンで、下院各会派代表らとの会合に出席したプーチン・ロシア大統領=7月7日(タス=共同)
モスクワのクレムリンで、下院各会派代表らとの会合に出席したプーチン・ロシア大統領=7月7日(タス=共同)

ウクライナ侵攻はルサンチマン?

モンテーニュの『エセー』に強い影響を受け、人間と社会を冷徹に観察して独学で思索を深めていった米国の哲学者、エリック・ホッファーが1951年に発表した『大衆運動』(紀伊国屋書店)にこんな記述を見つけた。

《欲求不満が強くなるのは、わたしたちが何も手にしておらず、わずかなものを要求しているときよりも、すでに多くのものを持っていて、しかもさらに多くのものを要求しているときなのである》

《希望が爆薬のように働くのは、すぐに実現することができると思えた場合のこと》

大衆運動に熱狂する人々を分析した書ではあるが、ホッファーの言葉は、プーチン露大統領の一連の行動そのもののように感じられる。すなわち、2014年にクリミア半島の略奪に成功したことで、大国復興の欲望をさらに肥大化させ、今回も容易に目的を達成できると踏んで「あしき希望」を爆発させて侵略に踏み切った…。

そのもくろみは、西側の支援を受けたウクライナの粘り強い抵抗でもろくも崩れ、戦争はいよいよ消耗戦の様相を呈してきた。この侵略戦争が、どのような形で終わるのかまったく見えてこない。

「まだ本気を出していない」と発言し、あくまで戦争を継続しようとするプーチン大統領の強気な姿勢は、多くの識者が指摘するように、ロシアの長期的な国益に合致するとはとても思えない。指導者としての合理性はどこへ行ったのか。

そんな思いが頭に渦巻いていた折、『ユーラシア・ダイナミズムと日本』(中央公論新社)に収められた北海道大教授、宇山智彦さんの論考「感情とイメージの地政学」が目に留まった。宇山さんはこう指摘する。

《研究者やジャーナリストなどの分析者は、物事を合理的に説明することを是とする傾向が強いが、実際の政治は必ずしも合理的に動いているわけではない》

その通りだと思う。合理的に説明できないことのほうがこの世界には多いはずだ。それでも私たちは合理的な解釈ができないと落ち着かない。近代人の弱点といえるだろう。

宇山さんによれば、プーチン大統領は感情的であるがゆえに、国民の支持を得やすい面があり、その行動は、米欧に対して抱いてきた屈辱感と意趣返しの欲求を抜きにして説明できないという。

プーチン大統領の行動の根っこにあるものが、西側から「冷戦の敗者」として扱われてきた積年の恨み、すなわち「ルサンチマン」だとするなら、これに対処するすべはあるのだろうか。それも核の使用も辞さないと恫喝(どうかつ)する指導者を相手に。

私の思考はここでストップする。プーチン大統領の死、もしくはロシア国民の厭戦(えんせん)気分が国を覆いつくす、これ以外に解決の道はあるのだろうか。

オーウェルの警告、ロシアで現実に

ここで、短い夏を屈託なく楽しんでいるロシアの人々に、無礼を承知で尋ねたい。祖国の宝である、たとえばドストエフスキー、トルストイ、ソルジェニーツィンの作品をあなたたちはきちんと読めますか、と。「余計なお世話だ」といわれるだろうが、一度試したほうがいい。もし、読めないとしたら、あなたたちは「プーチン農場」の家畜になりかかっているということだ。

プーチン大統領は「戦争」を「平和維持」と表現するような発言、さらには敵であるメディア(ジャーナリスト)を強権的に統制することで、ロシアを着々と「オセアニア化」しようとしているように見える。「オセアニア」とは、英国の作家、ジョージ・オーウェルが1949年に発表したディストピア小説『1984年』の舞台となった全体主義国家だ。

その前半生は社会主義者であったオーウェルは、スペイン市民戦争が勃発すると、フランコ将軍率いる反乱軍に抗する人民戦線に義勇兵として身を投じた。そこで、人民戦線を支援するスターリンのソ連が、じつは自由を圧殺する全体主義への強烈な欲望を持ち、考え方の異なる「同志」をあらゆる手段を使って粛清することを知る。45年に発表した、スターリンやトロツキーを思わせる動物が登場する『動物農場』、その続編といえる『1984年』の原点にはこの体験がある。

権力の最大の目的は権力を維持することだ。これは古今東西変わらぬ真理だろう。そのためには粛清であろうが戦争であろうが平然とやってのける。反社会団体と手を組むことなんてお茶の子さいさいだ。

国民を隷従させるために権力が重視するのが洗脳と監視と暴力だ。独裁者ビッグ・ブラザー率いるオセアニアには、国を支える4つの省がある。報道、娯楽、教育、芸術を統括する真理省、戦争を管掌する平和省、法と秩序の維持を担当する愛情省、経済問題を引き受ける潤沢省だ。その実態は、噓とプロパガンダをまき散らす真理省、戦争を推進する平和省、国民を監視し拷問にかける愛情省となる。この4省を統合したのが、プーチン大統領が君臨するクレムリンだ。

洗脳で大きな役割を果たすのが「ニュースピーク」と呼ばれる公用語だ。「政治的自由」や「知的自由」といった、全体主義権力の維持に不都合な概念を表現する語彙は削除され、残された語彙もひとつの意味しか持たないようにする。国民の思考の範囲を縮小するためだ。

さらに「二重思考」の強制がある。通常人間は、矛盾に直面するとそれを解消しようと思考する。マルクスを引っ張り出すまでもなく、矛盾を解消しようとする人間の思考こそが改革や革命につながってゆく。これを恐れたオセアニア政府は、「二重思考」を強いることで、矛盾に直面した国民が、それを感じないように洗脳してゆくのである。その象徴が真理省のピラミッド型ビルの壁面に掲げられた3つのスローガンだ。

「戦争は平和なり」

「自由は隷従なり」

「無知は力なり」

自国の軍隊がウクライナで市民の殺戮(さつりく)を続けているなかで、なおもプーチン大統領を支持し、短い夏のバカンスを楽しんでいるロシアの人々に繰り返し訴えたい。自分が「ニュースピーク」と「二重思考」のとらわれ人になっていないか、まずはドストエフスキー、トルストイ、ソルジェニーツィンなりの作品を手に取って確認してほしい。遠回りかもしれないが、それが停戦に向けた一歩となる。私はそう信じる。

(文化部 桑原聡)

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