優勝旗が越えられない「白河の関」とは 高校野球、解けるか〝東北の呪縛〟

仙台育英と聖光学院に贈った優勝旗の通行手形のサンプルを手にする白河神社の社掌、川瀬ムツ子さん。後方は白河神社の社務所=福島県白河市(芹沢伸生撮影)
仙台育英と聖光学院に贈った優勝旗の通行手形のサンプルを手にする白河神社の社掌、川瀬ムツ子さん。後方は白河神社の社務所=福島県白河市(芹沢伸生撮影)

甲子園球場では日本一を目指し高校球児の熱戦が連日、繰り広げられている。今大会は東北地方から仙台育英(宮城代表)と聖光学院(福島代表)がベスト8入りし、春夏を通じ初の東北勢優勝に注目が集まっている。高校野球で「優勝旗は白河の関を越えられるのか」が関心事になって久しい。東北地方の代表校が頂点に立てないことを表す言い回しだが、白河の関がどこにあり、どんな歴史があるのか調べてみた。現地を訪ねると、東北勢2校の準々決勝進出で静かに熱く盛り上がっていた。

芭蕉も憧れの地

白河の関があったのは、福島県白河市。JR東北線白河駅の南約10キロの山あいで、栃木県境からは3キロ弱北に位置する。東西約140メートル、南北約180メートル、高さ約13メートルの丘陵にあり「白河関跡」と表記される。

白河の関は、関東と東北の境に設けられた東北地方の玄関口。「奥州三古関」の一つで、7~8世紀には存在し、12~13世紀まで人や物資の往来を取り締まっていたとされる。律令制が衰退し関の機能を失い、白河の関は忘れ去られ、江戸時代後期まで正確な場所も分かっていなかった。

しかし、「みちのく」の入り口は文化人憧れの和歌の名所になり、西行や松尾芭蕉らが足を運んだ。芭蕉は奥の細道に「白河の関にかかりて旅心定まりぬ」と記し、白河の関で旅をする決心を固め、感動を持って東北へと踏み出した。

寛政12(1800)年、白河藩主・松平定信は考証を行い、空堀や土塁が残る場所を白河の関と断定、「古関蹟碑(こかんせきひ)」を建てた。昭和34年から行われた発掘調査では、竪穴住居や掘立柱建物の跡などを確認。8~9世紀頃の土器や鉄製品も出土したことなどから、国史跡に指定された。

関係者も参拝

白河の関は巨木が多く歴史を物語っている=福島県白河市(芹沢伸生撮影)
白河の関は巨木が多く歴史を物語っている=福島県白河市(芹沢伸生撮影)

「白河の関を越える」という表現は、古くから「東北地方に入る」ことを意味していたのは間違いなさそうだ。では、高校野球で「優勝旗は白河の関を越えるのか」との表現がいつから使われたのか。白河市では「特に把握はしていない」(生涯学習スポーツ課)と話す。

白河の関には白河神社が鎮座し、参拝する東北地方の高校野球関係者は少なくない。福島県内のチームとの試合で訪れた他県の高校球児がチーム単位で訪れたこともあるという。

取材当日、参拝していた男性(54)は、宮城県石巻市から初めて訪れた。「仙台育英が勝ち進んでいるので…」と話す男性は「やはり『白河越え』は意識する。自分にとって一番は、宮城県から優勝校が出ること。でも、東北勢には頑張ってほしい」と力を込めた。

通行手形も

「優勝旗は白河の関を越えられない」。このジンクスを打ち破ろうと、白河神社では平成9年から甲子園に出場する東北地方の高校に、優勝旗の通行手形を贈っている。宮司の西田重和さん(74)は「春も夏も東北の出場校全部に、必勝祈願のお札と一緒に郵送している。心から優勝を願っている」とエールを送る。

優勝旗の通行手形はファンの間では知られており、通行手形を求めて足を運ぶ人もいる。しかし、一般用の通行手形の用意はなく、その場合は「勝ち守り」を勧めているという。

白河神社の社掌(しゃしょう)で、西田さんの姉、川瀬ムツ子さん(77)は、聖光学院の快進撃で一気にボルテージが上がっている。「ちょっと熱くなってきた」と話す川瀬さんは「東北の高校が優勝したら、ぜひ、優勝旗を持って白河の関に寄ってもらいたい。オープンカーでパレードしたら最高」と興奮気味だった。(芹沢伸生)

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