大阪にも落ちた模擬原爆 広島・長崎につながる悲劇、語り継ぐ

追悼式で模擬原爆の体験を語り、平和の大切さを訴える龍野繁子さん=7月26日、大阪市東住吉区の恩楽寺
追悼式で模擬原爆の体験を語り、平和の大切さを訴える龍野繁子さん=7月26日、大阪市東住吉区の恩楽寺

先の大戦の末期、米軍の特殊部隊が原爆の投下訓練として全国に計49発の爆弾を投下した。その名は「模擬原爆」。操縦士が爆風に巻き込まれずに飛行する訓練との側面もあったといい、理不尽にも400人以上の命が奪われた。爆心地近くの町工場にいた大阪市東住吉区の龍野繁子さん(97)は、間一髪で命をつないだ。終戦から77年。広島と長崎の悲劇につながる模擬原爆の実態を知る人は少なく、自らの体験を伝え続けている。昭和20年7月26日の朝だった。国民学校の教員になって3年目の龍野さんは、大阪市東住吉区の町工場で勤労動員の生徒約20人と一緒に過ごしていた。

ただ戦況の悪化に伴い原材料は入ってこず、何の作業もできない。ほどなくして工場長から「今日は勉強してください」と伝えられ、板戸を隔てた隣の部屋へ移ったその時だった。

「バリバリバリバリ、ドッカーン」。模擬原爆が着弾し、とてつもない音が鳴り響いた。その距離わずか約150メートル。爆風で近くの料亭の岩が吹き飛び、さっきまでいた隣の部屋の屋根を突き破っていた。「あと10分、隣の部屋にいる時間が長かったら…」。命があるのは偶然に過ぎないと思った。

遺体安置所となっていた学校に向かった。無残にも破壊された家屋、電線にぶら下がったままの遺体の一部。住み慣れた街と日常が一瞬にして奪われたことに底知れぬ恐怖を感じた。

この時の模擬原爆では7人が犠牲となった。うち一人は、龍野さんの姉の親友の女性だった。

女性は当日の朝、龍野さんの自宅を訪ねていた。玄関で「いってらっしゃい」と声をかけてくれたのが最後。学校の講堂で女性の遺体と対面した母や姉によると、背中にはガラスの破片が無数に突き刺さっていた。「2番目のお姉ちゃんのような、優しくてきれいな人だった。朝まで普通に話していたのに」。戦争の理不尽さを思い知った。

全国で400人以上が犠牲となった模擬原爆の投下は、終戦直前の20年7月20日から始まった。戦後、その実態は長らく不明だったが、愛知県の団体が平成3年に国立国会図書館に所蔵されていた米軍資料から、投下場所の一覧表や地図を発見し、公表した。模擬原爆の惨状を語り継ぐ活動を続ける「7・26田辺模擬原爆追悼実行委員会」の大久保敏さん(75)は「広島や長崎につながる訓練が日本各地で起きていた。この事実を忘れてはならない」と指摘する。

龍野さんにとって模擬原爆は消したい記憶だった。「思い出すことがつらい」。地元住民らが追悼の集いを開いていることを知っても、参加を見送っていた。

転機は約10年前。「知っていることを話してほしい」と友人らに背中を押され、自身が背負ってきた過去を少しずつ、集いなどで口にするようになった。今は体験を話す機会を大切にしており、「今年が最後」との思いで毎夏、力を振り絞っている。

龍野繁子さん
龍野繁子さん

気づけば97歳となった。大阪に模擬原爆が落ちたことを知らない人は少なくない。ただその延長線上に、広島や長崎の悲劇があった現実を忘れてはならない。「平和な時代が続くことがいかに大事かを伝えるため、できることをしていきたい」。戦争の体験者として何ができるか、生涯をかけて言葉を紡いでいくつもりだ。(清水更沙)


模擬原爆

昭和20年8月9日に長崎へ投下したプルトニウム型原爆とほぼ同じ重さの約4・5トンで、形も似た核物質を使っていない通常火薬の爆弾。「パンプキン(カボチャ)爆弾」とも呼ばれる。目標地点に確実に投下する訓練用の位置付けで造られ、20年の7月20日から8月14日にかけて、18都府県で計49発が使用され400人以上が死亡したとされる。


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