島を歩く 日本を見る

集団自決の歴史を胸に、今を生きる 座間味島(沖縄県座間味村)

「ケラマブルー」と称される美しい海に囲まれている座間味島
「ケラマブルー」と称される美しい海に囲まれている座間味島

終戦から77年が経過する今年、沖縄が本土復帰して50年がたった。先の大戦で熾烈(しれつ)な地上戦が繰り広げられた沖縄は、本島に限らず島嶼(とうしょ)部も戦火にさらされた。

那覇の西方約40キロに位置し、大小30余りの島々から成る慶良間(けらま)諸島は、沖縄戦で最初に米軍が上陸した地だ。その一つ、座間味島(座間味村)は沖縄戦の記憶を伝える戦跡が多く残る。

座間味村発行の『座間味村史』によれば、昭和19(1944)年9月10日に、日本軍は基地設営を目的とした海上挺進基地第一大隊と敵艦に特攻する特殊部隊(特幹隊)である海上挺進(ていしん)第一戦隊が座間味島に入港。翌月には米軍の空襲を受け、那覇・座間味島間の唯一の足であった船が沈没して、島は孤立し、食糧不足に陥っていったと記されている。

戦時中、学校は「特幹隊」の兵舎となり子供たちは青空教室で勉強した
戦時中、学校は「特幹隊」の兵舎となり子供たちは青空教室で勉強した

昭和20(1945)年3月23日、米軍は本島上陸作戦の前段階として、補給基地とするために慶良間諸島へ侵攻を開始した。空襲や艦砲射撃などで同諸島を攻撃し、島は火の海となる。26日に上陸を果たすと、わずか数日で島を占拠した。

島民は、海を埋め尽くすほどの数で侵攻してくる米軍艦船と、船が陸上に乗り上げて走行する水陸両用戦車に驚愕(きょうがく)する。しかし日本軍の応戦はなく、絶望の中、自らの手で命を絶つ「集団自決」の道を選ぶ島民が相次いだ。

座間味島の座間味小中学校の裏にある慰霊塔の平和之塔は、慶良間戦での犠牲者、軍民1200余柱が平和の守り神としてまつられており、毎年3月26日に慰霊祭が行われる。また、島内には集団自決の碑や弾痕が生々しく残る忠魂碑などもある。

同史によれば、米軍上陸直前の3月25日、島民に自決を示唆する「忠魂碑前に集合」という、役場職員からの伝令がまわり、誰もが〝死に支度〟をして向かったという。激しい艦砲射撃の続く中、結果的に集合できなかったと記されている。

座間味村では「座間味村平和・未来プロジェクト」を展開し、戦争体験者たちの証言を動画や絵本で伝えている。愛する肉親同士で手をかけあったという証言が多く、戦争の真実を突きつけられる。

座間味島は中国との進貢貿易が本格化した14世紀から唐船航路の中継地で、海運業や貿易によって発展してきた。県内で初めてカツオ漁業を創業し、不況時には南洋出漁によってもうけている。紆余(うよ)曲折しながらも豊かな暮らしが営まれてきた島だった。

光と闇は表裏一体で、私たちが向かう未来はどちらの可能性もあるのだと、今一度心に刻みたい。

■アクセス 那覇市の泊港から高速船やフェリーで。

■プロフィル 小林希(こばやし・のぞみ) 昭和57年生まれ、東京都出身。元編集者。出版社を退社し、世界放浪の旅へ。帰国後に『恋する旅女、世界をゆく―29歳、会社を辞めて旅に出た』(幻冬舎文庫)で作家に転身。主に旅、島、猫をテーマにしている。これまで世界60カ国、日本の離島は120島を巡った。

会員限定記事会員サービス詳細