話の肖像画

女優・泉ピン子<10> 演劇デビュー、めざせ一枚看板

大阪市の喫茶店で大きな夢を語る=昭和53年7月
大阪市の喫茶店で大きな夢を語る=昭和53年7月

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《昭和54年、東京・日比谷の芸術座にて、前年に放送されたドラマ「夫婦」(NHK)の同名舞台化作品に出演。これが演劇デビューとなる》

「舞台は失敗したら、やり直しがきかないから怖い」と話していました。開幕するのが怖くて、夢でうなされたこともあります。

この舞台の原作であるドラマは、夜9時台の「ドラマ人間模様」という枠で放送されました。視聴率を30%ほど取っており、それがこの枠としては、とても珍しいことだったそうです。

《ドラマ「夫婦」の視聴率は、初回放送の17・9%から、右肩上がりに上昇。最終回では34・8%を記録した》

この脚本を書いていたのが、一生の付き合いとなる橋田寿賀子先生。これが一緒にやった初めてのドラマでした。橋田先生は「あなたとやると視聴率が取れる。だから、これから絶対にあなたとやっていくことに決めた」と言ってくれました。

《演劇デビューの同年、ドラマ「おだいじに」(日本テレビ)に出演。このころ、初めて自分専用の楽屋をもらうことができた》

いくらバラエティー番組で実績があるといっても、役者の世界には役者の序列があります。テレビ局の部屋の数には限りがありますし、それまでの私は役者としてではなく、視聴率を稼ぐためのにぎやかしとして呼ばれていたので、楽屋はもらえていませんでした。

今の人なら「誰のおかげで視聴率を取れていると思っているんだ! なんて失礼な扱いをするんだ」と怒るかもしれませんが、当時の私は「そういうものだ」と受け入れていました。ただただ、とにかく(その芝居の中心となる)一枚看板の女優になりたいと思っていました。

《「おだいじに」では、憧れの女優である杉村春子さんとも共演を果たした。自身は病院に住み込みで働く看護師役、杉村は院長未亡人の役だった》

一生懸命、セリフを覚えました。私は杉村先生におべっかを使いながら、陰で悪口をいう役です。

杉村先生には「あなた、同じ音ばかり出している」と指摘されました。「『おくさまあー』じゃなくて、『奥さま』。どうしてあなたは汚い発音なのですか」と…。もう、いっぱいいっぱいで意味が分からないし、芝居って難しいなと思いました。そんなことを言われた日は、「早く帰りたい」と念じていましたね。

《当時の新聞には「〝女優の階段〟を上る泉ピン子」と書かれ、「のんびりしていたら、抜かれてしまう。休みが何日か続くと、もう人気なくなっちゃったのかな、と焦る」というコメントが掲載されている。ウィークエンダー当時は64キロあった体重が、このころは48キロまで落ちていた》

一枚看板の女優になりたくて、一生懸命でした。新劇、新派、歌舞伎からミュージカルまでの舞台、映画にテレビ…。芝居と名のつくものは何でも見てやろうと、せっせと時間を作って劇場に通いました。

ずっとテレビも見ていました。東京・六本木の自宅マンションに、テレビ4台とビデオデッキが2台。朝起きたら、新聞のテレビ欄に赤丸をつけて、ビデオをセットします。初めて買ったビデオデッキは、ウィークエンダーに出演していたころのもので50万円もしました。当時の50万円ですから、ずいぶん高い買い物です。

録画した番組を見るのは仕事の後です。全て見終わると夜が明けていたこともあります。寝ている時間を削って、テレビを見て勉強をしていました。(聞き手 三宅令)

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