「遺跡が敗戦後の日本人を勇気づけた」戦後考古学の礎を築いた大塚初重・明治大名誉教授

昭和22年に始まった登呂遺跡の写真を見ながら当時を語る大塚初重さん=平成22年
昭和22年に始まった登呂遺跡の写真を見ながら当時を語る大塚初重さん=平成22年

戦後間もない昭和22年、弥生時代に本格的な稲作が行われたことを初めて裏付けた登呂(とろ)遺跡(静岡市)を発掘するなど、戦後考古学の礎を築いた明治大名誉教授の大塚初重さん。学問の原点は、先の大戦で死の淵をさまよった経験と、登呂遺跡で自身が掘り起こした祖先の足跡だった。「登呂は、戦争にうちひしがれた日本人に勇気を与えたんです」。7月21日に95歳で亡くなった大塚さんは、古代ロマンにとどまらない遺跡の意義を説き続けた。

キーン、キーン…。大戦末期の20年4月14日未明、海軍兵として中国・上海に向かう途中、韓国・済州(チェジュ)島沖で停泊していた輸送船にいた大塚さんは、耳をつんざくような音で目を覚ました。直後に感じた大きな衝撃と揺れ。積み荷の魚雷が爆発し、周囲は瞬く間に火の海となった。米軍潜水艦による魚雷攻撃だったと知るのは後のことだ。

甲板へ上がる階段は燃え落ち、死を覚悟したそのとき、クレーンのワイヤが垂れ下がっているのが見え、とっさに飛びついた。

「助かった」と思った途端、何人もの兵士が大塚さんの胴や足にしがみついてきた。ずるずると体が落ちていくなか、無意識のうちに足をばたつかせて振り落とし、海に脱出した。

「私は戦友を振り落として生き残ったんです」

戦後60年以上、胸の奥に封印していた記憶。フィリピン・ルバング島から49年に帰国して有名になった小野田寛郎(ひろお)・元陸軍少尉(故人)と雑誌の企画で対談する機会があり、そう打ち明けた。

小野田さんは少しうなずいてこう答えた。「ちっとも気にすることなんかない。それが戦争なんですよ」

戦後65年たった平成22年夏、千葉県内の自宅での取材で、大塚さんは小野田さんとの対談について改めて振り返った。「人として一生背負わないといけないと思っています。それでも、小野田さんに聞いてもらって本当によかった」

■神風は吹かなかった

神国日本は不滅。神風が吹いて戦争に勝つ。幼少時からこう教えられた大塚さん。がれきにつかまって燃え上がる輸送船を見ながら「神風は吹かなかった」と思ったという。

復員後、「本当の歴史を知りたい」と歴史学が盛んな明治大の夜間部に入学。昭和22年7月、初めて発掘に参加したのが登呂遺跡(1世紀ごろ)だった。

同遺跡が見つかったのは戦時中の18年。ゼロ戦のプロペラ製造工場建設の際に大量の土器が見つかり、一部が発掘されたが、軍備増強が優先され、調査は短期間で打ち切られていた。

■空前の登呂ブーム

昭和22年に始まった登呂遺跡の発掘調査ではトロッコも使われた(静岡市立登呂博物館提供)
昭和22年に始まった登呂遺跡の発掘調査ではトロッコも使われた(静岡市立登呂博物館提供)

スコップで土を掘り返すと、土器やくわなどの農耕具、水田跡が次々に見つかった。用水路跡などでは何千本もの杭(くい)が打ち込まれた状態で残っていた。

「日本は米軍の空襲でやられたが、2千年前の祖先が築いたものは土の中でビクともしていない。日本は戦争に敗れたが、まだまだ滅んでいない。生きてるんだよ、日本人は。そう思いながら土を掘ったんです」

登呂遺跡の発掘は、戦後の混乱期にもかかわらず全国的なニュースとなり、皇太子時代の上皇さまも視察された。

戦争という重い十字架を背負いながらも、ユニークな語り口で歴史の魅力を解説し、「お茶の間考古学」の草分けともいわれた大塚さん。親交があった白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)=(83)=は「大塚先生より少し若い世代の私たちにとって、戦争体験を機に歴史学を志した姿勢や言葉は、大変重みがあった。考古学をなぜ勉強するのかという原点を常に肝に銘じておられた」と悼んだ。(小畑三秋)

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