メディアの革命児 前田久吉

読者との「隙」をつく新しい新聞 第1部まとめ

産経新聞の源流は、大正9年7月、大阪・天下茶屋(てんがちゃや)の新聞販売店主、前田久吉が27歳のときに発刊した週刊ローカル紙、南大阪新聞にさかのぼる。

前田が営む新聞販売店、有川新聞舗は大阪毎日新聞の系列。大毎や朝日新聞の紙面に天下茶屋のニュースはあまり出ないことに着目したもので、独創的にニッチな市場を開拓する「メディアの革命児」前田の第一歩となった。

若き日の前田久吉(東京タワー提供)
若き日の前田久吉(東京タワー提供)

少人数の船出だったが、前田の新聞業界の人脈で編集ノウハウを獲得し、当時天下茶屋一帯で都市開発が進んだこともあって業容を拡大。11年夏に本格創刊を迎え、大阪市内全域進出を目指して「夕刊大阪新聞」に改題した。

当時の大阪は、大毎と朝日の2強時代。13年には両紙とも発行部数100万部突破を宣言した。二大紙の牙城攻略について前田は「新聞と読者の間に僅かの隙がある。(中略)大阪人とぴったり合って、少しの隙も出さない新聞、ここから地盤を獲得し、拡大してゆこう」と語っている。

夕刊大阪は各紙に先駆けて映画欄を開設。また、当時のニューメディアに着目し、ラジオ欄を設けた。さらに連載小説に力を入れ、後に菊池寛ら流行作家を次々と登場させた。

政治に関する主張が中心の大(おお)新聞にはない、「隙」をつく手法で夕刊大阪は成長。さまざまな可能性を追求できた大正期のムードも追い風となった。ただ昭和に入ると、世は戦争へと傾斜。夕刊大阪も時代に翻弄されていく。

夕刊大阪原紙の一部。「大正十一年七月十四日第三種郵便物認可」とある
夕刊大阪原紙の一部。「大正十一年七月十四日第三種郵便物認可」とある
切り抜きとして残っていた「夕刊大阪創刊の辞」(『大阪新聞75周年記念誌』から)
切り抜きとして残っていた「夕刊大阪創刊の辞」(『大阪新聞75周年記念誌』から)


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