話の肖像画

女優・泉ピン子<8> 嫌々ながら演歌歌手、でも手抜きなし

歌手デビュー曲「哀恋蝶」を発表する=大阪市内のクラブで
歌手デビュー曲「哀恋蝶」を発表する=大阪市内のクラブで

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《バラエティー番組にドラマにと、テレビ・ラジオ業界を縦横無尽に暴れ回るころ、今度は演歌で歌手デビューの話が舞い込んでくる。昭和52年、独特のサビのきいた太い低い声で、捨てられた女の切ない恋を歌ったデビュー曲「哀恋蝶(あいれんちょう)」をリリースする》


歌を聞いて、作曲家の小林亜星さんが、「ピン子ちゃん、歌うまいね」って言ってくれました。「噓だ先生、寝ていたんじゃないか」と返しましたけどね。

本当は歌いたくなかったんです。でも当時は「売れたら歌手デビューも込み」みたいなところがあって…。それでも手を抜くことはしませんでしたよ。その年の日本有線大賞では、新人賞を取りました。

テレビやラジオの歌番組からも声がかかり、「NTV紅白歌のベストテン」(日本テレビ)、「歌のグランド・ショー」「ひるのプレゼント」(いずれもNHK)など、歌手としての出演も多くなりました。(過労が噂されていたアイドルの)ピンク・レディーと、ほぼ同じ稼働時間でした。

大忙しのなか、その合間を縫って、衣装を抱えて地方キャンペーンをしていました。乗っていた車が追突事故に遭って、むち打ち症になるアクシデントもありました。痛む体をこらえて、キャンペーンのため大阪に入り、生放送の「奥さまリビング」(関西テレビ)に出演しました。目まいがして気持ち悪くて吐くほどで、舌がもつれてしまっていたので、予定を変更して歌はアテレコですませました。

車をぶつけてきた相手は普通のサラリーマンです。記者から事故の相手を聞かれても、名前が出てしまうのがかわいそうで私は黙っていたのですが、それが臆測を呼んで「大物政治家がぶつけたんじゃないか」なんて言われていました。


《「哀恋蝶」はヒットし、年末に行われる「NHK紅白歌合戦」への出場や、「日本レコード大賞」での受賞は確実だといわれていた》


NHKオーディション(NHKの番組に出演を希望、予定している歌手や演奏者に対して行われた資格審査会)には一発で合格しました。その時に「紅白の席、空いてる?」と聞いたら、審査員が驚いていましたよ。

翌年から始まる、新しい歌番組「NHK花のステージ」のメイン司会のオファーも来ていました。紅白出場なんて、最初は冗談みたいなものでしたが、周囲がもてはやしますし、だんだん自分でもその気になってきていました。

20万円のドレスを新調し、そして迎えた運命の出場者発表の日。私の前に、記者があふれんばかりに集まっていたのが、1人減り、2人減り、3人減り…。うちのマネジャーが「落ちたね」と言いました。「ドレスはどうしよう」って聞いたら、「使い回しすればいいじゃない」。それもそうか、と気を取り直しました。

「日本レコード大賞」では、ノミネートされていたので、当日は会場に呼ばれました。父が電話でエールを送ってくれたのですが、何を勘違いしたのか、「ピン子、落ち着いて歌えよ」って。「受からなかったら歌えないのよ」って答えたら、会場中が爆笑していました。

結局、受賞はできませんでした。5人選ばれるうちの最後の新人賞枠に入ったのが、隣にいた(歌手の榊原)郁恵ちゃんで、「ピン子ちゃん、怖いよ」と言うのです。「大丈夫、大丈夫」と励ましたら、「一緒に来て」と頼まれ、仕方がないから、ステージの上までエスコートしました。

そのまま私だけステージから降りて、ノミネートされた歌手の待機席に座っていたんです。周囲の歌手たちが座っていた席はガラガラになっており、マネジャーに「帰ろう」と言われました。私はめったにない経験だと思っていたので、生でずっと見ていたかったのですが、「(周囲に誰もいないのに)お前だけ座ってテレビに映っているのは、みっともないから帰ろう」と重ねて言われてしまいました。(聞き手 三宅令)

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