論説委員 日曜に書く

川瀬弘至 こんな文章 読みたくない

「義烈空挺隊玉砕之地」碑と掩体壕跡=今年5月、沖縄県読谷村
「義烈空挺隊玉砕之地」碑と掩体壕跡=今年5月、沖縄県読谷村

戦後77年の夏を迎えた。

毎年この時期になると、自身の生き方を見つめ直すためにも先の大戦に関する書物をひもとくことにしている。新しい書物もあれば、随所に赤線の引かれた書物もある。

以下の特攻隊員の遺書も、何度も読んで胸に刻んだ一文だ。

正憲 紀代子ヘ

父ハスガタコソミエザルモ イツデモオマヘタチヲ見テイル。ヨクオカアサンノイヒツケヲマモッテ オカアサンニシンパイヲカケナイヨウニシナサイ。ソシテオオキクナッタナレバ ヂブンノスキナミチニスヽミ リッパナニッポンヂンニナルコトデス…

特攻のための特攻

昭和20年5月に沖縄で散華した陸軍第3独立飛行隊、久野正信中佐(享年29)が、当時4歳の息子と2歳の娘に書き残したものだ。

2年前から沖縄で単身赴任をしている筆者にも、浪人生の息子と高校生の娘がいる。だからなおのこと身につまされるのかもしれない。「リッパナニッポンヂンニナルコトデス」は、筆者自身にも向けられている。

久野中佐は「義烈空挺(ぎれつくうてい)隊」の作戦に参加した。〝特攻のための特攻〟と言われる、壮絶な作戦である。

20年3月26日から始まった沖縄戦で、日本軍は沖縄を守ろうと何度も特攻隊を出撃させたが、米軍が占領した北飛行場(のちの読谷補助飛行場)と中飛行場(嘉手納飛行場)からの迎撃機に阻まれ、十分な成果を上げられないでいた。

そこで編成されたのが義烈空挺隊だ。奇襲専門の空挺部隊が両飛行場に強行着陸し、米軍機を破壊して滑走路を使えなくしようとしたのである。

隊員は短機関銃などで重武装し、十数個の手榴(しゅりゅう)弾や爆薬を全身に巻きつけて出撃した。誰もが、生きて帰ろうとは思わなかった。久野中佐は隊員を運ぶ爆撃機の操縦士だが、決死の思いに変わりはなかった。

カミサマニナッテ…

時に5月24日午後6時40分、168人の隊員は12機の爆撃機に分乗し、熊本の陸軍飛行場を飛び立った。うち4機はエンジントラブルで引き返したが、8機が低空で沖縄の北、中飛行場に突入。たちまち米軍の集中砲火を浴び、次々に撃墜されたものの、1機が北飛行場に胴体着陸した。

中から隊員が飛び出し、四方八方へ散って滑走路上の米軍機へ爆弾を投げつける。燃料集積所も破壊し、ガソリン7万ガロンを焼き払った。

米軍はパニック状態だ。「北飛行場異変あり」「在空機は着陸するな」―。急を告げる電文が飛び交った。

激戦2時間、米軍機9機が破壊炎上し、29機が損傷、米兵約20人が死傷した。

一方で日本軍は112人が戦死した。久野中佐の爆撃機も撃墜された。

…「マサノリ」「キヨコ」ノオトウサンハ カミサマニナッテ フタリヲヂット見テイマス。フタリナカヨクベンキョウヲシテ オカアサンノシゴトヲテツダイナサイ。オトウサンハ「マサノリ」「キヨコ」ノオウマニハナレマセンケレドモ フタリナカヨクシナサイヨ…

「負の遺産」?

この遺書の響きを胸に、先日、読谷村をたずねた。平成18年に米軍から返還された補助飛行場(旧北飛行場)の跡地だ。日本軍がつくった掩体壕(えんたいごう)が1基残っており、傍らに義烈空挺隊の慰霊碑が立っていた。

だが、掩体壕の中に村の教育委員会が設置した案内板をみて、啞然(あぜん)とした。

「負の遺産・沖縄戦の痕跡」として、こう書かれていたのだ。

「日本にはかつて戦争を繰り返す間違った時代がありました。沖縄もその時代には戦場となり県民は苦しい思いをさせられました。読谷村にもその戦争の痕跡を示す遺跡が残っています」

近くには昭和10年建立の忠魂碑もあり、こう記されている。

「忠魂碑とは国家、天皇のために戦って死んだ軍人や軍属の忠義魂をほめ讃(たた)える記念碑で、多くの若者を戦場へ送り込む教育環境を作り上げるために建てられました…」

読谷村は、古くから革新色の強い自治体として知られる。だからといって、イデオロギーが過ぎよう。

戦没者をしのぶ夏とはいえ、こういう文章は読みたくない。「リッパナニッポンヂン」にもなれないだろうから。(かわせ ひろゆき)

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