話の肖像画

女優・泉ピン子<7> 芝居に憧れ、よい役者になりたくて

取材に対し、「私って中途半端が大嫌いなの」。淡々と芸道哲学を語る=昭和52年12月
取材に対し、「私って中途半端が大嫌いなの」。淡々と芸道哲学を語る=昭和52年12月

(6)にもどる

《ワイドショー「テレビ三面記事 ウィークエンダー」(日本テレビ)から続く人気で、昭和50年、映画「神戸国際ギャング」、ドラマ「花吹雪はしご一家」(TBS)へ出演の声がかかり、女優デビューを飾った》


「花吹雪はしご一家」では、俳優の小沢栄太郎さんと共演しました。その際、おじいちゃん(小沢さん)に、「芸を盗むのってどうやるの?」と聞いたことがあります。「うーん、難しいな」と言われました。とてもかわいがってもらって、湘南の家まで遊びに行ったこともあります。仕事が忙しい時期だったから、眠くて仕方がなかったのですが、「ピン子、遊びに来い」と言われたので。

私はちょっと人たらしのようなところがあって、すごく年上の方々からかわいがられるんです。(日本を代表するおばあちゃん役者と呼ばれた)北林谷栄(たにえ)さんからも「家へ遊びにおいで」と言われたことがあります。訪ねると、チキンを丸ごと1羽、前の晩から準備して、お釜から炊き上げたイタリアの料理を作ってくれていました。でも、私は鶏肉が本当は苦手で…。

北林さんは、私のことをピン子ではなくて、ポン子だと思っていました。いつも「ポン子ちゃん」と呼ばれていました。「違います、ピン子です」とは言えませんでした。あんまり「ポン子、ポン子」と呼ばれるものですから、「この際、ポン子でいいや」と思っていました。

そうしたらある時、誰かに指摘されたのでしょうね、北林さんが「ごめんなさい、人の名前を間違えて」と謝ってこられました。それからは、例えば手紙などでは「親愛なるピンポンさま」となっていました。「もう、それでいいや」と笑ってしまいました。


《バラエティー番組の仕事と並行して、51年に「いごこち満点」「三男三女婿一匹」(いずれもTBS)など、次々とドラマに出演していく》


良い役者になりたくて、とても燃えていた時代です。北林さんに「(演劇の本場として名高い)ロンドンへ芝居を見に行きなさい。シェークスピアなどを学んでおいで」と言われたのも、このころです。行きましたよ、30代、女1人でロンドン。

そのロンドンで、お芝居を見て帰る途中、俳優の山﨑努さんに、偶然出会いました。ガス灯の下に、カシミヤのジャケットを着たいい男がたたずんでいるんです。私は当時、彼の熱烈なファンでした。その山﨑さんが「ピン子、ホテルを訪ねるよ」と言うのです。これはもしかしたら、もしかすると思いました。それで、白のコットンのネグリジェを購入して、準備して待っていたわけです。フロントから「ミスター山﨑が来ている」と連絡があり、いつでもOKと思って出ていったら、山﨑さんが「じゃ、ピン子、飯食いに来いよ」と去っていきます。言われた場所へ行くと、俳優の寺泉憲さんら、たくさんの役者がいました。みんなでロンドンに来ていたみたいです。

私が帰国して「(山﨑さんの件は)残念だった」と北林さんに報告すると、「腕悪いな。モノにできなかったのか」と笑われました。

それからも1人でロンドンに行ったり、(ミュージカルの本場である)ニューヨークに行ったり、芝居に憧れて、ずいぶん勉強しました。要するに、色物であるお笑いから出てきて、役者にバカにされまいと、しゃかりきになって、やっていた時代です。

だから劇団四季あたりの俳優に、下に見られそうになると、「ロンドンに行って、あの話題の舞台を見ましたか」と、こちらから逆に聞いていました。「見てらっしゃらない? あらそう。見られた方がいいですよ」と言うと、黙りましたね。やっぱり、芸人上がりだと、見下げられるような感じはありました。そういう時代でした。(聞き手 三宅令)

(8)に進む

会員限定記事会員サービス詳細