モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら

(133)退職後は「黄金の時間」だって?

『予言者』の抜粋が収められた神谷美恵子さん訳『ハリール・ジブラーンの詩』。後ろは全訳である佐久間彪さん訳『預言者』。原題の「The Prophet」をなぜ神谷さんが「予言者」としたのかは謎だ
『予言者』の抜粋が収められた神谷美恵子さん訳『ハリール・ジブラーンの詩』。後ろは全訳である佐久間彪さん訳『預言者』。原題の「The Prophet」をなぜ神谷さんが「予言者」としたのかは謎だ

新型コロナウイルスの感染拡大もあって、このところ、テレワークという名の隠棲(いんせい)を決め込んでいる。間もなく現実となる「退職後の人生」を見据えたレッスンでもある。テレビは見ない。世界や社会の動きは、産経新聞電子版と「ニューズウィーク日本版」が配信する情報があれば、おおよそ知ることができる。そもそも情報処理能力が低いので、これぐらいでちょうどいい。ざっくりといえば、孤独と向き合いながら、自分の精神を上手にコントロールする方法を模索しているのだ。

だが、ことはそううまく運ぶはずがない。案の定、精神はたるみっぱなしになってしまった。情けないほど何もできない。無為が日々積み重なってゆく。無為、無為、無為、無為、無為…。無為の摩天楼が築けそうだ。それだけならまだいい。過去に自分がなした恥ずべき発言や行為がゾンビのようによみがえり、それが入道雲のように巨大化して精神の上に影を落とす。恥ずかしさのあまり、「もう勘弁してくれ!」と、思わず声をあげてしまう。

終わりの見えぬロシアのウクライナ侵略、それに伴う物価高騰と電力危機、新型コロナの感染拡大、安倍晋三元首相の暗殺と、それによって図らずも露見した世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と政治家とのただならぬ関係、そして地球が焦げてしまいそうなほどの酷暑…。そうした混沌(こんとん)も精神の上に別の影を落とす。「われわれは、あたかも罰を受けているようだ」と、つぶやく。

モンテーニュは37歳のときに《わたしに残されたこの僅かな歳月を独りで静かに送ろうと堅く決心して》法官を辞め、自分の城に隠棲した。領地と領民を抱える封建領主だからこそできる決断である。ところが、とんでもない落とし穴が待ち受けていた。彼は、古代ローマの詩人、ルカヌスの「無為が精神をあちらこちらに追いちらす」という言葉を引用し、無為によって精神が手綱を放れた馬のように暴れ始め、奇怪な妄想を後から後から順序も計画もなく産み出し始めてしまった、とぼやく。

彼はこの妄想を一つ一つ書き記すことで、《いつかわたしの精神が、自分からはずかしいな、と思うようになってくれればよいが》と期待して執筆を始める。これが『エセー』の始まりだ。

モンテーニュには彼なりの、私には私なりのやり方がある。自分の情けない状況をなんとかしようと、私は一冊の詩集を手に取り、気の向くまま読み始めた。

美智子さまから贈られた詩集

その詩集とは、ハンセン病の人びとに寄り添い続けた精神科医、神谷美恵子さんが訳し解説を付した『ハリール・ジブラーンの詩』(角川文庫)である。作家・精神科医の加賀乙彦さんの解説によれば、神谷さんは、皇太子妃時代の上皇后美智子さまからジブラーン(1883~1931年)の『予言者』を贈られ、その世界に深く分け入っていったという。

ジブラーンは「20世紀のウィリアム・ブレイク」とも称されるレバノン生まれの詩人であり、ロダンに師事した彫刻家、画家でもあった。カトリック教会(マロン派)の信徒だったが、後に破門される。大いなるものへの畏敬の念に支えられた、壮大な宇宙的ビジョンと、人間のささやかな営みに向けられた温かなまなざしの融合した作品を残した。

『ハリール・ジブラーンの詩』には、『予言者』から抜粋した作品が数多く収められている。オルファリーズという町で長らく敬愛されていた予言者、アル=ムスターファーが、故郷に帰る船に乗る直前、見送りにきた町の人々から発せられた人生をめぐる26の質問に答えるという体裁の作品だ。

前回のコラムで「経口中絶薬に反対する」と書いたばかりの私の目は、「子どもについて」にくぎ付けとなった。

《彼らはあなたがたを通して生まれてくるけれども/あなたがたから生じたものではない、/彼らはあなたがたと共にあるけれども/あなたがたの所有物ではない。》

神の御業(みわざ)によって子供は授けられると、予言者は人間の傲慢を戒め、親を弓に、子供を矢にたとえる。

《あなたがたは弓のようなもの、/その弓からあなたがたの子どもたちは/生きた矢のように射られて 前へ放たれる。/射る者は永遠の道の上に的をみさだめて/力いっぱいあなたがたの身をしなわせ/その矢が速く遠くとび行くように力をつくす。》

弓になれなかった自分を素直に受け止め、深くうなずく。

次いで、口を開くことがほとんどない日々を送っている私の目をとらえたのは、「しゃべることについて」だ。予言者はこう警告する。

《心が平和でなくなったとき/あなたがたはしゃべる。/心の孤独に耐えられなくなったとき/あなたがたは唇に生き/音は気散じと慰みになる。》

8年前、岩波ホールで見た「大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院」を思い出した。カトリック教会の中でもとりわけ厳しい戒律を持つことで知られる修道院のあるがままの日常をとらえた3時間弱の作品だ。修道士たちは一日の大半を個々の房で過ごし、定められた時間に祈りをささげ、自給自足のための労働をする。会話が許されるのは日曜の昼食後の散歩の時間だけ。そうした修道士たちの生活を監督は手持ちのカメラで追う。それだけの作品だ。もちろんナレーションも音楽も付かない。聞こえてくるのは、風の音、雪が降る音、薪(たきぎ)がはぜる音、木の床がきしむ音、きぬ擦れの音、鳥の鳴き声…。

当時本紙に連載していたコラム「鈍機翁のため息」に私はこう記している。

「終わってみるととても贅沢(ぜいたく)な時間を過ごしたような気になった。そうなのだ、余計な情報から遮断された沈黙の時間こそが、精神を深めるための黄金の時間なのだ。絶えずスマホで他人と連絡を取り合ったり、情報を確認したりする現代人の精神が浅くなっていくのは当然ではないか、と思うのであった」

「黄金の時間」か。せっかくそれを手に入れたのに、いまのこのザマは何なのだ!

予言者はこう続ける。

《ひとりで居るのを恐れて/話好きの人を探し求める者がある。/ひとりで黙っていると、裸の自己が見えるから/それを逃げたいと思うのだ。》

再び深くうなずくと同時に、「まず何から始めようか」と考えている自分に気づく。

※モンテーニュの引用は関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)による。

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