一聞百見

「知識」より「知恵」を養う サッカー指導者・風間八宏さん

サッカー指導者の風間八宏さん=大阪市此花区(沢野貴信撮影)
サッカー指導者の風間八宏さん=大阪市此花区(沢野貴信撮影)

4年に1度のサッカーの祭典、ワールドカップ(W杯)カタール大会が11月21日に開幕する。日本は同23日の1次リーグ初戦で強豪ドイツと対戦することが決まった。1980年代にそのドイツに渡ってプロ選手としてのキャリアをスタートさせたのが、指導者として活躍している風間八宏(やひろ)さん(60)。Jリーグ1部(J1)の川崎フロンターレや名古屋グランパスで監督を務め、現在はセレッソ大阪アカデミーの技術委員長として次代の選手育成を担う名伯楽も、日本の躍進に期待をかけている。

森保監督にも助言

カタール大会で日本は7大会連続7度目のW杯挑戦となる。1次リーグはドイツだけでなく、スペインも同じ組となり、過去最難関といってもいいほどの組み合わせとなった。風間さんもその難しさは率直に感じている。

「今、欧州では代表チームがすごく厳しいリーグ(欧州ネーションズリーグ)を戦っています。いろんな条件で、向こうの方が上でしょうね」

それでも、日本にも勝機は必ずあるはずだ。風間さんはJリーグサンフレッチェ広島の初代主将を務め、現在日本代表を率いている森保一監督(53)とも一緒にプレーしたことがある間柄。以前、森保監督に直接伝えた話があるという。

「サッカーの根本的な考えは何かということ。コートは横68メートル、縦105メートルだけど、オフサイドもあり、それぞれの技術もあるから、このグラウンドの大きさをどんな大きさにも変えられるんです」

ドイツは強靱(きょうじん)なフィジカルや組織力を誇るが「コートを半分にしてしまえば、日本人の方がうまいんじゃないかな」と話す。鍵になるのはセンターバックからセンターフォワードまでの距離。これをいかにコンパクトにするかだ。「例えば、ロングキックを放り込んでくるチームだと自分たちのやりたいことがほとんどできなくなる。自分たちの距離と技術が生きる戦い方を考えないといけない」。日本が得意とする形に持ち込むことで勝機が見えてくることを説いた。

とはいえ、ドイツはW杯優勝4回(西ドイツ時代を含む)を誇る百戦錬磨のチーム。そこで見どころになるのが森保監督の采配だ。「ドイツを相手に、どのくらいのコートの大きさで戦えばいいかは考えていると思う。堅実でしたたかだから、戦ってくれそうな気がしますね」と期待をかける。また、戦術だけでなく、重要な要素になるのがメンタル面。日本的な思考からの脱却も勝つために必要だという。

「日本人は細かいプレーがうまい。昔みたいにいろんなもので劣っているという発想じゃなくて、勝っているもので戦うしかないですよね。これから日本が変わっていかないといけないのはそこのところ」

サッカー解説者の風間八宏さん=大阪市此花区(沢野貴信撮影)
サッカー解説者の風間八宏さん=大阪市此花区(沢野貴信撮影)

サッカー界ではよく耳にする「欧州スタイル」「南米スタイル」という言葉にも、風間さんは首を振る。「学んでいるようでは勝てないから、日本のサッカーを作っていかないといけない」。その大きな一歩を、森保ジャパンがW杯という大舞台で踏み出すことを信じている。

ドイツで学んだ厳しさ

サッカーの指導者として豊富な実績を持つ風間さんの原点はドイツにある。筑波大を卒業後、昭和59年にドイツ挑戦の道を選んだ。現代の社会とは違って情報もほとんどなく、文字通り右も左も分からない状況からのチャレンジ。だからこそ、得られたものは多かった。

海外に挑戦することは早くから決めていた。当時の日本の最高峰は日本サッカーリーグ(JSL)で、プロリーグはまだなかった。中学2年のときに担任の先生に「サッカーばかりやっていても将来なんにもならないぞ。野球だったらプロがあるけど」といわれ「いや、海外にいったらプロっていっぱいあるんですよ」と感情的に返答したことがあったという。

中学卒業後にブラジル行きの誘いもあったが、全国高校サッカー選手権への憧れもあって静岡・清水商高(現清水桜が丘高)への進学を選択した。ただ、中学時代から欧州遠征も経験し、どこを相手にしても勝てていたのが、高校になると海外の相手の方が強くなって、「なぜなんだ」と感じていたという。

そして、高校3年時に体験した世界との戦いで海外挑戦への思いが固まった。決定的になったのは、ワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)でアルゼンチンのマラドーナを見たときだった。「こんな選手が(海外には)いっぱいいるんじゃないか。早く出ないといけない」との思いが強くなった。

筑波大時代、日本の実業団チームと交渉の席につくこともしなかった。「(西ドイツに)行ったことがあったことと、当時一番強い国だったこと。西ドイツならちゃんとお金が稼げるだろう」と絞って行き先を模索。大学OBでもあった田嶋幸三氏(現日本サッカー協会会長)が研修留学していた縁もあって、レーバークーゼンへの道が開かれた。

「やっぱり厳しかった。グラウンドの中に入ったらみんなが敵。(相手チームの11人だけでなく)『1対21』というのが普通のことでした」と振り返る。チームの監督からも「ここに友達を集めたわけじゃない。仕事ができるやつだけを集めた」と言われたという。

根本的な日本との違いを感じつつ、プロとして戦う心構えも形成された。「日本は人とうまくやらないと試合がうまくいかないみたいなところがある。でも試合をうまく運ぶためにチームはあるわけだから、別にチームメートを好きでも嫌いでもいいんです」

レーバークーゼン、レムシャイト、ブラウンシュバイクで計5年間プレーした後、平成元年に日本へ復帰。当時JSL2部だったマツダ(現サンフレッチェ広島)を選び、ドイツで培ったものを日本に注入した。同5年のJリーグ開幕時は初代主将として戦い、翌年にはリーグ優勝も経験。そして同8年は再びドイツに渡って指導を学び、引退。長く続く指導者人生が始まった。

J1川崎監督時代の風間八宏さん(右)ら
J1川崎監督時代の風間八宏さん(右)ら

日本サッカーの底上げ

風間さんはJ1のサンフレッチェ広島などでプレーした後、平成8年に現役を引退。引退後には想像していなかったオファーが次々と舞い込んできたという。桐蔭横浜大のサッカー部立ち上げと、テレビでの解説が新たなスタートになった。「当時はテレビに出ることは嫌いだったし、教えることも向いていないと思っていた。それがいきなり両方きた」と苦笑まじりに振り返る。ただ、その経験も先につながる人生訓になった。

「自分の適性とかそういうものは、結局自分の中では分からない。人が声をかけてくれるということは(適性が)なければないこと。だから、できてもできなくても、一応やってみる。大体そういう感じで生きてきた」。サッカー選手だったこと以外、自分でやりたくてやったことは一つもなかったという。

その後、筑波大の監督を務め、J1の川崎フロンターレ、名古屋グランパスとプロチームでも指揮官を任された。「今でも『監督やらないんですか?』っていわれるけど、元から監督やろうなんて思っていない」と笑う。それでも、「面白いものを作りたい」という信念で、指導者の道は続いてきた。そして、昨年からセレッソ大阪アカデミー技術委員長というポストに就き、アカデミー(育成)から日本サッカーの底上げを担う立場になった。

ここで今取り組んでいる一つが「スぺトレ」だ。小学生から高校生まで、年齢や性別も問わずに一緒に行う特別なトレーニングのこと。今後はチームを組んで大学生との試合、さらには海外遠征も視野に入れている。体格や運動能力などに大きな差があっても、どのように克服していくか。それをつねに考えながらプレーすることで、サッカーの質を上げることが狙いだ。下級生が上級生から学ぶだけでなく、逆に上級生が得ることも多いという。

風間さんが指導するスペトレの様子©CEREZO OSAKA SPORTS CLUB
風間さんが指導するスペトレの様子©CEREZO OSAKA SPORTS CLUB

「高校生を中学生の練習に一人で行かせることもあります。簡単だと思うでしょう? でも意外と何もできない。大きい選手は小さい選手に懐に入られたときにどうするか。逆に小さい選手は技術と目のスピードで勝たないといけない。そういう勝負になるんです」

戦うために、「知識」より「知恵」を自然と身につけていくことが大きなポイント。「自分が劣っているものが何かということをもっとみんなが感じないといけない。劣っていることを認めると、もっと違う手段で動き始めます。そうして、また新しい力が出てくるんです」と説く。

そうした発想の原点には風間さんが高校生だったころ、小学生や中学生と一緒にトレーニングした経験がある。それぞれの年代の指導者が集まり、多くの指導者の目で子供たちを見ることができるのも良かったと感じていたという。

「現代の日本だと(規則にとらわれない)ストリートサッカーをそこらへんでやるなんて現実的じゃないでしょう。でも、そういうものを作りたいと思っています」。つねに日本サッカー界に一石を投じてきた風間さんの取り組みは、また大きな広がりをみせていきそうだ。


かざま・やひろ 昭和36年、静岡市出身。清水商高から筑波大に進み、19歳で日本代表に初選出される。大学卒業後は西ドイツに渡り、レーバークーゼン2部など3クラブで5年間プレー。平成元年に帰国し、当時日本リーグ2部のマツダ入り。平成5年に開幕したJリーグでは広島の初代主将を務め、同リーグの日本人初ゴールを記録する。同8年に現役引退。桐蔭横浜大、筑波大の監督を経て、同24年から5年間J1川崎の監督を務めた。令和3年1月、セレッソ大阪アカデミー技術委員長に就任。

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