被爆者が沈黙した「空白の10年」 行政の支援なく失われた幾多の命

被爆体験の証言を続ける清水弘士さん=7月23日、広島市中区
被爆体験の証言を続ける清水弘士さん=7月23日、広島市中区

3歳で被爆した広島市の清水弘士(ひろし)さん(80)は、その後約10年間にわたって、ひどい腹痛や倦怠(けんたい)感などの原爆症に苦しめられた。行政の支援がほぼなく、プレスコードによって被爆者の惨状も伝えられなかった昭和30年頃までの「空白の10年」を語り継ぐことを、使命と考えている。「被爆者にとって戦争は死ぬまで終わらない」。広島に原爆が投下されてから、6日で77年となる。

血だらけの母、熱線浴びた父

昭和20年8月6日、清水さんは爆心地から約1・6キロの自宅に母のキクエさんといた。清水さんは倒壊した家の下敷きとなったが、母が血だらけになりながら引っ張り出してくれた。

父の治己(はるみ)さんは爆心地から約1キロの職場で被爆した。爆風でガラスが顔一面に刺さり、熱線で金網のようなやけどを負った。周辺は竜巻のような炎に包まれ、治己さんは近くの池に一時避難。逃げる途中で失神し、病院に運ばれたが消毒液を塗ってもらうことしかできず、はうように自宅近くにたどりついた。

一家は親戚宅を転々とした後、9月半ばに治己さんの弟が広島市内に所有する壊れかけた小屋へ移った。疎開していた10歳上の兄、威充(たけのぶ)さんも呼び戻し、ようやく一家がそろったが、治己さんは10月8日に亡くなった。清水さんは「父の腹は、全体が青黒く変色していた」と振り返る。

原爆症に苦しんだ日々

清水さんもひどい下痢と腹痛に苦しんだ。朝起きると大量の鼻血で布団は血まみれ。疲労感や倦怠感に襲われる「たいぎい病(原爆ぶらぶら病)」にも悩まされ、自分は20代で死ぬだろうと自暴自棄になったこともあった。

キクエさんが行商などで瀬戸物を売り、工場の日雇い労働などもして一家の生活を支えた。闇市の2畳ほどのバラックで親子3人が暮らしたことも。キクエさんは体調が悪くよく発熱し、わずかな休息時間はいつも伏せっていた。医者に診てもらう金などない。「発熱にはエビのゆで汁が効くと聞き、川エビをよくつかまえに行った」

一家が苦しみぬいた原爆投下後の10年余り、行政からは何の支援もなかった。多くの被爆者は、声を上げることもできないまま、「うつる」と言われるなどの差別や偏見を経験し、原爆症や死ぬのではないかとの不安に苦しんだ。しかし連合国軍総司令部(GHQ)によって原爆を批判する報道は規制され、惨状は明らかにされなかった。

「まさに空白の10年。被爆者が自分の病気のことを言えば、逮捕されて重労働を課せられるといわれた。多くの人が沈黙した。おそろしいことだと思う」

伝え続ける放射線の怖さ

忘れられない光景がある。中学時代の健康診断で病院に行くたびに見た、ホルマリン漬けの無脳児や単眼児の標本だ。「被爆者の赤ちゃんたち。対面するたびに何か、もの言いたげに思えた」。清水さんは「原爆で苦しむのは自分の代で終わりにする」と子供を持たない人生を選んだ。

そんな清水さんが被爆証言を始めたのは70歳のときだ。平成23年の東日本大震災の原発事故に大きな衝撃を受け、放射線の怖さを伝えたいと思った。広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)にかかわる中で「空白の10年」を、自分なりに究明していくと決意した。

原爆投下から約1カ月後には、海外特派員によって原爆による残留放射線についての報道がなされていた。しかしその翌日、米軍による原爆調査団の指揮官が、残留放射線を否定する声明を出した。原爆が人々の体を長期的に蝕(むしば)む残虐な兵器であることは隠蔽(いんぺい)された-。「空白の10年に、助かるべき多くの命が援護がないまま、失われていった」と憤る。

清水さんは今も腎臓や心臓に疾患を抱え、講演などで人々に伝えている。「被爆者は、体の中に原爆をずっと抱えていかなければいけない。戦争は、いったん始めたら終わらない」(嶋田知加子)

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