朝晴れエッセー

自由の風・8月5日

入社して2年半後の1982年9月、香港の工場に赴任した。工場は観塘(クントン)工業区にあり、昼食は、工場の前の道路沿いに並ぶ露店で食べた。クラクション、物売りの声、機械の音、舞い上がる塵埃(じんあい)、そして魚の腐ったような臭いの中で、ぶっかけ飯、野菜炒め、タンメンなどを食べた。時折、テーブルの間を大きなネズミが駆け抜け、日本の保健所の人が見たら目ん玉がくるくる回るだろうなぁと思った。

尖沙咀彌敦道(チムサーチョイネイザンロード)の両側に並ぶブランド品店の前を歩くイギリス紳士が、浮浪者の前に置かれた空き缶にコインを落とす。巡回の警察が来ると、笛がなり、一斉に逃げ回る露店の屋台。エキゾチックでエネルギッシュで、そして、なによりも自由だった香港。

「食とショッピング」の香港は、日本で一番人気のある旅行先のひとつであった。

会社を定年退職した後の2020年2月、香港に友人を訪ねた。工場があった場所には商業ビルが建ち、街中は整備され、露店も見当たらない。

あのエネルギッシュでエキゾチックな香港はどこに残っているのだろう。

「武漢で変な病気が発生している。これから感染が広がる」と友人は言ったあと、続けてため息混じりに言った。

「民主化は遠のくばかりだ。香港の未来はあるのだろうか?」

今、香港には、大陸からの風が一方向だけに吹いている。

いつの日か、また、自由の風が香港に吹くことを私は祈っている。


渡辺誠二(66) 北九州市八幡西区

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