米爆撃機墜落の地に平和記念館開館へ 搭乗員被爆の悲劇伝える 山口・柳井

米軍の爆撃機「ロンサムレディー号」の乗組員ら(森重昭さん提供)
米軍の爆撃機「ロンサムレディー号」の乗組員ら(森重昭さん提供)

先の大戦の終戦間際、山口県伊陸(いかち)村(現・柳井市伊陸)に墜落した1機の米軍機の記憶を風化させまいと、同市出身の男性が私設の平和記念館開館に向け、準備を進めている。米軍機の名はロンサムレディー号。生き残った搭乗員のうち6人が9日後、友軍が広島市に落とした原爆により命を落とすという数奇な運命をたどった。男性は「小さな私設記念館だが、発信力はどこにも負けないものにしたい」と意気込む。

米兵12人が被爆

私設記念館を開館するのは武永昌徳さん(71)。伊陸生まれ伊陸育ちの武永さんだが、ロ号についてはおぼろげな知識しかなかったという。しかし、平成14年、被爆米兵について調査している広島市の歴史研究家、森重昭さん(85)が文芸誌に書いた寄稿文を読んで、ロ号の詳細を知り、それ以降、森さんの調査に立ち会うようになった。

爆撃機「ロンサムレディー号」の資料などを集めて平和記念館をつくった武永昌徳さん=7月28日、山口県柳井市
爆撃機「ロンサムレディー号」の資料などを集めて平和記念館をつくった武永昌徳さん=7月28日、山口県柳井市

その森さんの調査によると、被爆死した米兵捕虜は12人おり、そのうち6人がロ号の搭乗員だという。

ロ号は、昭和20年7月28日、広島・呉沖で戦艦「榛名」の対空砲火を受け、そのまま伊陸の山中に墜落した。墜落時、戦中ということもあり、居合わせた地元住民のほとんどが女性だったが、搭乗員の傷の手当てをするなど米兵に対して危害を加えることはなかったと伝わっている。

搭乗員7人が広島の中国憲兵隊司令部に連行され、東京に移送された機長のトーマス・カートライトさん(2015年に90歳で死去)を除く6人が9日後の8月6日、広島で被爆死した。

続く地元との交流

自身も被爆者だった森さんは、戦後、米兵が描かれていた被爆者の絵を見たのをきっかけに、会社員時代から40年以上かけ、米兵捕虜を調査してきた。生前のカートライトさんとも親交があり、「戦後も6人の安否を気遣っていた」と振り返る。カートライトさんは平成11年、前年に柳井市伊陸の地元有志がロ号が墜落し、搭乗員6人が広島で被爆死したことを伝えるために建立した「平和の碑」を訪れるなど交流が続いた。

その碑からほど近い場所にある全長約15メートルのトレーラーハウスが、武永さんが私費を投じて準備してきた記念館だ。墜落現場や搭乗員の写真や書籍などロ号に関する資料約100点を展示予定だという。

墜落した7月28日の開館を予定していたが、新型コロナウイルスの感染拡大で延期。感染状況を見ながら、年内にも開館するとしている。

◇歴史的場面を描いた絵も

ロ号の資料と合わせて記念館に展示予定なのが、森さんに寄贈された「平和の兆し」と題される1枚の油彩画だ。28年5月、広島を訪問したオバマ元米大統領と森さんが抱擁を交わした場面が描かれている。

この歴史的な場面に心を揺さぶれられた富山県在住の画家、才田峰風さん(60)が手掛け、6年前に森さんに贈ったものだ。

「絵を見た瞬間、その生々しさ、迫力に度肝を抜かれた」と森さん。自宅で大切に保管していたが「多くの人に見てもらえる日を待ち望んでいた」として、6月に寄贈を決めた。

「平和の大切さを象徴する絵だ」と力を込める森さん。油彩画は31日まで柳井市の柳井図書館に展示され、その後記念館の開館を待つことになる。

「核戦争が起これば人種も国籍も問わないことを、われわれは被爆米兵の研究を通して知ることができた。戦争はあってはならない」と話す森さん。

ロシアのウクライナ侵攻など戦禍が絶えないなか、武永さんは「過去に起きたことを学ぶということは、未来への指針になると思う。戦争の惨禍を伝えていくことは残された者の義務と責任でもある。歴史を次世代へ残したい」と強調した。(嶋田知加子)

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