本郷和人の日本史ナナメ読み

比企氏の謎㊤ 頼朝が最も信頼した一族

島津以久像(模本、東大史料編纂所蔵)
島津以久像(模本、東大史料編纂所蔵)

梶原景時についてはいろいろとお話ししてきましたので、景時と並んで2代鎌倉殿・源頼家を支える立場にあった比企氏について語っていきたいと思います。

比企氏については分からないことがあまりにも多い。一族が北条氏に攻められて滅びているために、然(しか)るべき史料が残されていないのです。ですがそれにしても、どんな系譜を持つ、どんな家だったのか。どうもよく分かりません。

『吾妻鏡』の記述によると、比企掃部允(かもんのじょう)と比企尼(ひきのあま)が夫婦。比企尼は源頼朝の乳母の一人です。乳母の筆頭は山内首藤(やまのうちすどう)家の女性でしょうから(この家は代々源氏当主の乳母を出していた)、比企尼の席次は2番手以下になります。けれども、彼女の頼朝への愛情はたいへんなもので、平治の乱の後に頼朝が伊豆に流されると、自らの所領である武蔵国比企郡から20年にわたって生活物資を送り続けた。頼朝がいつかは武家の棟梁(とうりょう)として再起し、鎌倉の主になるのが分かっていたのなら、懸命に援助し続けられたかもしれない。ですがそんなことは、当然分からないわけです。頼朝は一生、世に出られなかったかもしれないし、道半ばで早世したかもしれない。でも尼は、そんなことは関係なく、ひたすら物資を送っていた。普通にできることではありません。頼朝が「母」を思い浮かべたときに(実母は平治の乱以前に他界)、まず思い浮かべたのは比企尼の面影だったことでしょう。

蛭ケ小島(ひるがこじま)で生活していた頼朝には、1人だけ従者がいました。それが藤九郎盛長です。比企氏と彼はとても深い縁があるので、この人について考えてみたいと思うのですが…実はまた、この人がどこの馬の骨か、分からない。権威ある系図である『尊卑分脈』には藤九郎は小野田氏の一員で、のちに有力御家人に名を連ねる足立遠元の叔父さん(ただし年齢は遠元が上)というふうに記されています。ただし、『尊卑分脈』は貴族については確かなのですが、朝廷の周辺で編纂されたものなので、鎌倉初め頃の武士についてはあまり信用できない。

藤九郎はのちに安達氏を名乗る。両方よみは「あだち」なので、足立遠元の一族と安達藤九郎盛長は一緒くたにされたのかもしれません。ですが藤九郎が安達を名乗るのは、頼朝が奥州平泉の藤原氏を滅ぼした後に、福島県にあった広大な「安達荘」を盛長に与えたから。安達といえば、安達ケ原の鬼女の伝承が想起されますが、まさにこの地を家名にした。ですから安達と足立が一族のはずは、ほぼほぼないわけです。

『吾妻鏡』文治4年11月9日条を見ると、熱田大宮司家のお嬢さまである頼朝生母の弟に祐範という人がいて、この人は伊豆に流されていく14歳の甥(おい)のために、郎従1人を付き従わせた、とあります。また、『尊卑分脈』に祐範の兄・法眼範智のところに「藤九郎盛長人云々」と舌足らずな書き込みがあります(初めに注目したのは愛知学院大学の福島金治さん)。何が言いたかったのかは正確には分からないのですが、範智は藤九郎と深い関係がある人かもしれない。とすると、頼朝を伊豆に送り届けた祐範の郎従こそが、そのまま現地にとどまって仕え続けた藤九郎だった可能性もある。ただし『吾妻鏡』は通常は、「この付き従った郎従が安達盛長である」と種明かしをしてくれるのに、書いてないんですね。となると、伊豆へ送ってくれた人は、藤九郎その人ではないのかな? いや、それにしても、彼が熱田大宮司家に仕える、氏素性がたいしたことのない武士だった可能性は相当に高いと思います。

さて、ここで比企尼が関係してきます。『吉見系図』によると、尼の長女は京都で生活していたらしく、惟宗広言(これむねのひろこと)(歌人として名を残す)という下級官人とのあいだに2人の男の子をもうけていた。ですがやがて藤九郎の妻となり、安達景盛と女子を産んだ。女子は源範頼に嫁いで、その子が吉見氏を興す。そう書いてあります。

年齢的にどうでしょうか。たとえば藤九郎が20歳で伊豆の頼朝に仕え始めた、とする。尼の長女は仮に23歳で、2人の子をすでに産んでいるとする。無理は、ないですよね。この時点で尼に命じられて、京都の生活を切り上げて伊豆へやってきた。藤九郎と長女は夫婦となり、頼朝の世話にあたった。やがて夫妻には男の子と女の子が生まれた。うん、ここでも年格好は大丈夫そうですね。尼はもしかしたら何人かの下男・下女を送り込んでいて(なにせ人件費が本当に安い時期ですので)、藤九郎と長女に統轄(とうかつ)させたかもしれない。すると、伊豆の頼朝の生活は、頼朝と藤九郎だけのむさい男所帯ではなく、それなりに家族っぽくて充実していたのかもしれません。

こう想定してみると、「きれいなお姉さん」的な長女(頼朝よりも10歳くらい上かな?)と頼朝に男女の関係を想定し、長女の子である惟宗忠久は頼朝の落胤(らくいん)だとする薩摩・島津家の伝承は、ある程度の説得力を持つことになります。もちろん忠久は京都で生まれているはずなので、デタラメでしょうけれど。忠久は尼のもとで過ごしたのか、伊豆の母と暮らしていたのか。どちらにせよ子供の頃から頼朝には親しんでいたでしょう。それで後年の頼朝は、忠久をかわいがった。彼こそはあの島津家の初代、島津忠久です。 (次週に続く)

■頼朝後裔(こうえい)を称した戦国の島津家

薩摩島津家は戦国時代に「わが家は源頼朝の子孫である」と称し、惟宗ではなく、源を名乗っていた。『尊卑分脈』をみてみると、忠久は頼朝の落胤として記載されている。現在の源頼朝の墓所を江戸時代に修復したのも、島津家である。なお、この絵の人物は島津以(もち)久(ひさ)(1550~1610年)。有名な島津4兄弟の従弟に当たる人物で、のちに日向・佐土原3万石の藩主になった。昭和天皇のお嬢さま、貴子さんが嫁いだのが、佐土原島津家である。

【プロフィル】本郷和人

ほんごう・かずと 東大史料編纂(へんさん)所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

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