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女優・泉ピン子(3)渡りに船のスカウトのはずが…

デビュー前の少女時代
デビュー前の少女時代

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《義母との不和を抱えたままの中学時代、うつうつとした気持ちを発散するように、ラジオ歌謡曲に夢中になった》

歌が心の支えでした。のど自慢荒らしみたいなこともやりました。父はずっと、私のことを「君」と呼んでいて、「学校なんか出ていなくていい。君は残念ながら一人っ子だ。親は必ず先に死ぬ。そうなれば君は1人だ。その時、1人でも食えるようになっておけ」と、口癖のように言っていました。

そのころ、たまたま出たテレビの歌まね番組でチャンピオンになりました。賞金は1万円で、自分と家族に洋服などを買っても、まだ余りました。子供心に「これはもうかる」と思ったものです。

プロダクションにスカウトされて、浅草の映画館で歌うようになりました。三門マリ子の名前で歌手となり、北島三郎ショーの前座もやったことがあります。もともと小学校のころから家を出たいとは思っていました。早く義母のもとから離れたかったのです。

ただ、もう一人、私と同じ立場の女の子がいたのですが、その子が私を追い落とそうと、ずいぶん意地悪をしてきて、「芸能界ってこんなところなの?」と疑問に思うこともありました。

《中学卒業後、日本音楽高等学校に通い始めた。同級生には、後に歌手で俳優の加山雄三と結婚する松本めぐみらがいて、親交を深めた。だが…》

義母は私が高校に通うのを快く思ってはいませんでした。父は義母に私の授業料を渡していましたが、義母に授業料を払ってもらおうとお願いすると、「そんな無駄遣いをして」というような文句を言われます。それでいやになりました。

高校を辞めてからは、義母と伯母のやっているおでん屋で働いていました。働いていれば、義母は機嫌が良かったからです。でもつらい目にあわされることは多くて、伯母が「そんなに要らない(子)なら、自分の子供にしたい」と申し出てくれたこともあります。

《おでん屋の看板娘として働く日々。芸能事務所で働く父親の縁で、店にはコメディアンが多く出入りしていた。彼らのネタを覚えたり、話を盛り上げたりしているうちに「面白い子がいる」と評判になった》

17歳ごろです。父の勤め先の芸能事務所の社長が、「漫談家にならないか」と言ってくれました。父の教えの通り、「1人で生きていける生業を持ちたい」と切望していたのもあり、スカウトは渡りに船でした。

芸名は父の命名です。「泉姓で売れた芸人はいないから、そのジンクスを破りなさい」「ピン子のピンは、ピンからキリまでのピン。カタカナの方がモダンで、お年寄りから小さい子まで覚えやすく、好かれやすいだろう」と言っていました。

《事務所の先輩で、ハワイアンのアレンジに「やんなっちゃった」などのフレーズを乗せて社会批評を歌うウクレレ漫談家、牧伸二に弟子入りしたとされる》

弟子というほどではありません。箔(はく)をつけるために、そういうことにしたのだと思います。芸名も、最初は牧さんがつけたことになっていました。

覚えているのは、地方興行終わりの牧さんに新宿駅で朝4時に車から降ろされて、始発までロータリーで途方に暮れていたこと、その車に牧さんとその不倫相手の女性が乗っていて、2人一緒にどこかへ消えても、牧さんの奥さんには噓をつかなければならなかったこと…。10代の娘にはつらい経験でしたよ。

焼き肉を食べに行くというからついていったら、網の端で焦げた炭みたいな肉を「食べていいぞ」と食べさせられたり、「3千円を貸してくれ」と言われて、いつまでも返してもらえなかったり…。「勘弁してくれ」と思いました。(聞き手 三宅令)


(4)に続く

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