話の肖像画

女優・泉ピン子<2> 母と死別、義母につらく当たられ

実母に抱かれて(本人提供)
実母に抱かれて(本人提供)

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《昭和22年9月、東京・銀座で生まれた。本名は江口小夜(さよ)。父の鉱三郎は浪曲師で、後に台本作家の広沢竜造。戦中戦後に、ラジオ浪曲ブームを巻き起こした二代目広沢虎造の一番弟子だ。父方の実家は、銀座4丁目の百貨店「和光」の裏手にある、うなぎ屋だった》

だから私の本籍は、銀座4丁目なんです。生まれがそのあたりだから、昔から「周りにネオンがないと落ち着かない」なんて、よく話していました。

父が言うには、本当は小夜で「いざよ」と読ませる名前にしようとしたらしいです。でも、区役所で「いざよじゃなくて『さよ』ですよね?」と確認され、説明が面倒だったらしく「それでいいです」。「さよ」になりました。

後々、どうも小夜という名前の画数には結婚できなそうな後家の相があると聞きました。それを父に話したら「そのために名付けたんだ」と言われてしまいました。「孫の顔を見るより、売れた姿を見たい」と、芸の道に生きた人でした。

父はとても愛してくれました。「勉強しろ」とは言わなかったけれど、「本を読め」とはよく言っていました。中学の頃に、父から松本清張の「点と線」を薦められて面白さを知り、松本作品を全て読みました。海外の名作や三国志なども乱読しました。映画や芝居にもよく連れて行ってもらいましたし、(女優の)杉村春子先生の舞台を初めてみたのは、父と一緒の時だったと思います。私の女優の下地を作ってくれました。

結婚するなら、父以上の人とって思っていました。私、ファザコンなんです。

《母の喜美代とは2歳の時に死別した。実母の存在が発覚するまではずっと、父の2番目の妻である浪曲師の三門お染のことを、生みの親だと思っていた》

実母は美容師をしていた人で、弟を死産して、そのまま亡くなったと聞いています。

小学校のころ、近所のおばさんに「将来は何になるの?」と聞かれ、「美容師さん」と答えたら、「あら、やっぱり血は争えないわね」と言われました。どういうことだろうと思って、「え、じゃあ、今のお母さんは?」と聞くと「知らないの?」と、いろいろ教えてくれました。あの頃は、近所にそういうおせっかいな、事情通のおばさんがよくいたものです。でも、とてもショックでした。

幼い私を残して亡くなったお母さんの気持ちは、どのようなものだったのか…。ずっと考えています。ドラマや芝居で母親役を演じるときは、いつも実母のことを切なく思いながら、演じています。

《物心ついたころには、五反田の義母の家で暮らしており、「祖父」や「祖母」や「叔母」など家族10人ほどが暮らすにぎやかな家で育った》

育ったのは五反田の花柳界です。義母との折り合いは良くありませんでした。前妻の子供である自分に対する当たりも強かった。中学校に持っていくお弁当も作ってもらったことがありません。

実の親ではないと分かってからは、義母のことを「お母さん」とは呼べなくなっていました。

それでも育ての親ですから、成長してから、ずっと義母への仕送りは続けていました。(大ヒットしたNHK連続テレビ小説)「おしん」に出演したころには、電話で「仕送りが少ない」と責められ、(女優の)森光子さんの前で泣いてしまったことがあります。

テレビ番組で共演したときでしたか、美輪明宏さんに相談したこともあるんですよ。「なんで、義母はあんなにつらく当たったんだろう」って。そうしたら、美輪さんは「(前妻である実母が)あなたにそっくりだからでしょう」と言っていました。それで、なんだか納得した記憶があります。(聞き手 三宅令)

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