話の肖像画

女優・泉ピン子<1> 酸いも甘いも…芸能界半世紀

静岡県熱海市の熱海倶楽部で=衣装・YUKIKO HANAI、スタイリスト・森外玖美子、ヘアメイク・林香織(ヘアーベル)、寺河内美奈撮影
静岡県熱海市の熱海倶楽部で=衣装・YUKIKO HANAI、スタイリスト・森外玖美子、ヘアメイク・林香織(ヘアーベル)、寺河内美奈撮影

《名前を聞いて思い浮かぶのは、ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」(TBS)のラーメン屋のおかみだろうか。それとも連続テレビ小説「おしん」(NHK)の情け深い母親だろうか。はたまたワイドショー「テレビ三面記事 ウィークエンダー」(日本テレビ)の明け透けなリポーターだろうか。半世紀近く、常に芸能界の一線でタレント、女優として活躍してきた》


私が世の中に広く知られるようになったのは、昭和50年に「ウィークエンダー」に出演してからですね。それまで8年ほど、漫談家として演芸場とキャバレー回りの下積み時代を送っていました。その直前くらいまでは、「花が咲く気配もないし、いつまでもこんなことをしていても仕方がない」と芸人を諦めることも考えていたので、人生どうなるか分かりません。

「ウィークエンダー」では、不謹慎で下世話な話題をしゃべり倒す女として、一躍脚光を浴びました。ただただ、必死なだけでした。人気なんて、すぐに消えうせますから。

そのころのインタビューで、「あなたは90%〝永遠の女性〟にはなりえない。自分でそれを知っているはず」なんて聞かれたこともあります。「分かっていますよ。人気なんて人の気持ちと書くんですから、新しい形のものを、パターンの違ったものを、もう大衆は待っているでしょう」と答えました。

だから「いつまでもリポーターのピン子ではいられない」と、女優の道を志しました。〝大きいお母さん〟と慕った杉村春子先生、〝小さいお母さん〟と慕った森光子さん…多くの先輩方にも恵まれました。そして、〝ママ〟こと脚本家の橋田寿賀子先生。初めてご一緒したとき、「あんたと組めば、視聴率が取れる」と言われました。どんな芝居をしても、芸人上がりだと、役者一本でやってきた人たちから見下げられるところがあったので、価値を認めてもらって、本当にうれしかったですね。

橋田先生とは「おしん」や「渡る世間は鬼ばかり」のほかに、「おんな太閤記」や「おんなは度胸」など、千本以上のドラマをやりました。先生はホームドラマの名手でしたから、よく私の家庭生活をモデルに作品を書いていました。


《〝ホームドラマの顔〟と呼ばれるほど女優として大成する一方、結婚、夫の隠し子騒動、事務所独立問題、いじめ疑惑など、その一挙手一投足が週刊誌やスポーツ紙を騒がせてきた》


根拠のないことをたくさん、好き放題に書かれてきました。あんまり口さがないものだから以前、ある週刊誌の記者に「なぜ、私のことをそんな執拗(しつよう)にネタにするのか」と聞いたことがあります。すると「宮沢りえと泉ピン子のネタは、雑誌の売れ行きが良くなるから」との答えでした。そういうものか、と納得しました。腹は立ちますが、芸能界にいる者の宿命だと思って諦めている面もあります。いちいち反論してもバカバカしいという気持ちもあるかもしれません。だって、次から次へといろいろ言われたり、書かれたりしますからね。本当のことを分かっている人は分かっていますから、それでいいと思うようにしています。


《芸能界に足を踏み入れて半世紀以上、駆け抜けた歳月を振り返る》


思えば遠くに来たと感慨深くなることもあります。目の前のことを一生懸命に乗り越えてきただけという気もします。

杉村先生には、私の好きな代表作「女の一生」のセリフ、「誰が選んでくれたのでもない、自分で選んで歩き出した道ですもの」を書いてもらったことがありますが、その言葉は今でも胸に刻んでいます。(聞き手 三宅令)

【プロフィル】泉ピン子

昭和22年、東京都中央区銀座生まれ。本名、武本小夜(さよ)。42年に漫談家としてデビュー。50年にワイドショー「テレビ三面記事 ウィークエンダー」(日本テレビ)に出演したことで、一夜にしてスターに。その後、女優として連続テレビ小説「おしん」(NHK)や「渡る世間は鬼ばかり」(TBS)など数多くの作品に出演。8月から朗読劇「泉ピン子の『すぐ死ぬんだから』」に出演。

(2)につづく

会員限定記事会員サービス詳細