幼い頃から病と闘いながら将棋に人生をかけた。「東の羽生、西の村山」と並び称された天才棋士、村山聖(さとし)九段。24年前の夏、29歳の若さで亡くなった。かつて村山さんが足しげく通った食堂は今年2月に閉店し、本拠地だった関西将棋会館(大阪市福島区)は令和6年に大阪府高槻市への移転が決まるなど、ゆかりの地が姿を消しつつある中で、青春時代を過ごしたアパートはそのまま残る。生前の村山さんを知る管理人の高齢男性は地方に暮らす家族と離れ、いまなお訪れるファンを出迎えている。
将棋漬け十数年
村山さんが暮らしたのは、関西将棋会館から約700メートルほどの同市北区にある「前田アパート」。木造モルタル2階建てで、1階には自動車部品販売業の「三谷工業」が入り、2階に四畳半の部屋が3室ある。プロ棋士を目指して森信雄七段(70)に弟子入りした村山さんは、中学2年のときに故郷の広島から大阪へ。中学卒業後の昭和60年8月からこの一室で1人暮らしを始め、将棋漬けの日々を送った。
「階下の仕事場にまでバシッ、バシッと駒音が響いていた」。アパートの管理を任されている三谷工業顧問の田中充さん(79)は当時を懐かしむ。
5歳のときに腎臓の難病「ネフローゼ」を患い、入院中に父から教わった将棋に夢中になった村山さんは、生きている証しのように髪や爪を伸ばした。「そんな聖君を見て、大家さんがちゃんと家賃を払ってくれるのか心配していた」と笑う。「西の怪童」と恐れられた村山さんの活躍を知る将棋好きの田中さんが、とりなしたという。
村山さんは平成10年8月8日、獲得を夢見た名人位への挑戦権を争う順位戦A級に在籍したまま、進行性膀胱(ぼうこう)がんのため死去。その半年前まで十数年間、この部屋を借り続けた。
作家、大崎善生さんが村山さんの生涯をつづった著書「聖の青春」には、アパートの前でへたりこんで動けなくなっている村山さんを田中さんが見つけ、対局場の関西将棋会館に車で送り届ける場面が描かれている。田中さんによると、村山さんの部屋から仕事場に水漏れしたこともあったといい、その意味は本を読んで知った。