モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら

(132)「数え年」の意味するもの

「生命尊重の日」の集いで提言する慈恵病院の蓮田健理事長
「生命尊重の日」の集いで提言する慈恵病院の蓮田健理事長

道義を規矩として人間や世界を見たい

肉体的にも精神的にも息苦しい日々が続く。ふと気が付くと「何から何まで…」と、古い昭和の流行歌を口ずさんでいた。鶴田浩二さんの「傷だらけの人生」だ。左手を耳にあてて歌う姿を思い出す。52年も前に発表された曲にしみじみと心を動かされるなんて、改めて自分は「古い奴」だと思う。

「古い奴」たる私は、自分のうちに脈打つ道義を何よりも大切な規矩(きく)として、人間や社会を眺め、物申したいのだが、素直に書いたり口にしたりすると「人権の尊重」という基準に抵触することが多い。もともと怖がりで面倒くさがりという情けない人間ゆえ、それが理由であきらめたテーマは数知れない。人工妊娠中絶と女性の権利というテーマもそうだった。下手に手を出すと火だるまにされる危険性がある。

このコラムで是枝裕和監督の映画「ベイビー・ブローカー」を取り上げたさい、こうのとりのゆりかご(通称赤ちゃんポスト)を創設した蓮田太二さんと、その志を引き継いだ息子の健さんに触れた。

そのコラムを読んだという「お腹(なか)の赤ちゃんとお母さんを応援しよう実行委員会」なる市民団体から封書が届いた。7月13日に同会が開催する「生命尊重の日」の集いに出席しないか、という誘いだった。同封された資料を読み、眠っていた道義心が揺さぶられた。かくして、意を決して会場に足を運んだ。

3900万超の流された小さな命

そもそもなぜ7月13日が「生命尊重の日」なのか。それは昭和23年のこの日、中絶を合法化した優生保護法が公布されたからだ。周知のようにその目的は「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護する」ことであり、平成8年に母体保護法として改正されるまで、障害者たちに不妊手術や中絶手術を強いる根拠となった。小さな命の大切さを確認するのにふさわしい日は、この日以外にありえないと同会は考えたのだ。そして昨年からこの日に「生命尊重の日」の集いを開催するようになった。

会場で配られた資料に目を通して仰天した。中絶件数は令和元年度が15万6千、2年度が14万1千。また、優生保護法が公布されて以降これまでに葬り去られた生命は3900万を超える。これは届け出数であって、実数は少なくとも2倍はあると同会では推測する。つまり7800万もの命が流されたという。

少子化はわが国を襲う最大の国難と大騒ぎしているその裏で、届け出数だけで毎年15万前後の命が抹殺されているという現実を、読者はどう思われるだろうか。望まぬ妊娠をした女性が中絶という選択をしなくともよい社会を模索し、構築してゆくことこそ道義にかなったことではないか。

集いの今年のテーマは、昨年12月、英国の製薬会社ラインファーマが厚生労働省に承認申請をした経口中絶薬だ。薬は2つあり、最初の薬で子宮の赤ちゃんを殺し、2つ目の薬で子宮を収縮させて死んだ赤ちゃんを排出させるという。経口中絶薬は1988年にフランスで初めて承認されて以降、世界80以上の国や地域で承認され、2005年には世界保健機関(WHO)が安全で必須の医薬品として指定している。同会は承認に強く反対する立場だ。

もちろん承認を求める市民団体もある。たとえば、「#もっと安全な中絶をアクション」は、承認申請のあったその日、厚労省ほか関係省庁に、中絶薬の早期承認と世界標準に合わせた経口中絶薬の運用、抜本的に法制度を見直し、女性の性と生殖に関する法整備を早急に求める要望書を提出した。さらに5月の国会で厚労省が中絶薬の服用にあたって「母体保護法の規定に基づき、原則、配偶者同意が必要」と答弁したことに反発して、関係する法規定の廃止を求める約8万2千筆の署名を厚労省に提出した。

この団体が強く求めているのは、女性の「自己決定権」だろう。ただそれを優先するために、お腹の中の生命を恣意(しい)的に軽いものとしてとらえようとしてはいないか。もっと本質的なことを言えば、「自己」とは何か、突き詰めて考えたことがあるのだろうか、と思ってしまう。「自己」なんて近代の人間の傲慢さがもたらす思い込みで、それは虚構にすぎないのかもしれないぞ。

モンテーニュは第3巻第9章「すべて空なること」にこう記している。

《ただ自分を苦しめるものを取り除こうとばかりする者は、それっきり行きづまる。まったく、苦のあとには必ず楽が来るとは限らないのだ。またもう一つの苦が来ることもあるし、前よりもっとひどい苦がくることすらあるのである》(関根秀雄訳)

自己決定によって赤ちゃんを取り除いたあと、自分の心身がどうなってしまうか、想像力を働かせてほしいものだ。

今一度考えたい「数え年」の意味

この日、提言者として壇上に立った慈恵病院(熊本市)の蓮田健理事長は、研修医時代に立ち会った妊娠20週の中絶手術を回想し、「殺人の手助けをしているように感じた」と述べた。かなり生々しいが、排出された赤ちゃんの様子について紹介しておこう。脂肪のない骨と皮だけの赤ちゃんはそれでも必死に生きようとしている。しかし、まだ肺が出来上がっていないので呼吸ができず、すぐにグッタリする。それでも皮の裏にある心臓が動いているのが見えた…。

こうした話の後で、蓮田さんは、望まぬ妊娠をして孤立した女性とお腹の赤ちゃんを保護するためにも、女性が病院の相談員だけに身元を明かして、秘密裏に病院でケアを受けながら出産する内密出産の必要性を改めて訴えるのである。慈恵病院のような義の精神をもった病院が増えることを望みたい。

作家の山本一力さんは、「世界80以上の国や地域で承認されている経口中絶薬がまだ日本で承認されていないことを私は誇りに思いたい」と述べた。その通りだと思う。

グローバリズムに侵された私たちは、「人は人、自分は自分」という警句をすっかり忘れてしまったようだ。異なる歴史と宗教を持った他の国々に何もかも合わせる必要がどこにあるというのか。商取引やスポーツでは共通のルールがもちろん必要だが、合わせなくてもよいことはいくらでもある。その筆頭に挙げられるのが生命観だ。かつてわが国では受精受胎をもって命の始まりとする「数え年」を使っていた。その意味をいま一度考えてみるべきだろう。

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