ビブリオエッセー

畳の上にすべてがあった 「七帝柔道記」増田俊也(角川文庫)

夫が亡くなって四年。本棚を整理していたら「男が泣ける小説」という帯のある本が目に入った。開くと井上靖の小説から一節が引用されていた。「私たちは練習量がすべてを決定する柔道を作り出そうとしていたのである」。冒頭には井上が柔道に打ち込んだ旧制高校時代を描いた小説『北の海』のことが出てくる。それでわかった。夫は井上靖の大ファンなのだ。

『七帝(ななてい)柔道記』は著者の増田さんが自身の大学時代、柔道一直線の青春を描いた小説だ。舞台は旧七帝大が競う「七帝柔道」。この寝技を中心とした柔道は『北の海』に出てくる戦前の高専柔道の流れを汲んでいた。その魅力を知った私(著者)は二浪して北海道大学へ進学する。めざしたのは柔道部だった。

愛知の実家を離れ遠くへ行ってみたいという願望もあった。「ひりつく冷気と雪が好きだからここに来た」と書いている。そして始まった猛練習の日々はいかにも苦しそうだが、先輩や同学年の部員らとのやりとりは旧制高校のようにバンカラな空気に満ちている。

そして近づく七帝戦。残り三週間というある日、「私」は練習試合で膝を痛めた。激痛が走り、体が動かない。もう試合に出られない。

失意の中で先輩から聞いた言葉を反芻(はんすう)していた。「練習そのものが教えてくれる」「この北大柔道部っちゅう畳の上には生きることの意味すべてが詰まっちょる。それを一つひとつ見つめて、深く深く考えていくことじゃ」。大切なのは、いま目の前にあることに真摯(しんし)に向き合うことだ、と。ラストシーンは七帝戦だ。

夫も高校時代に寮生活でバスケットの厳しい練習と勉強に励んだと語っていた。「男が泣ける小説」がきっと心に響いたことだろう。

大阪府寝屋川市 由井和子(84)

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