本郷和人の日本史ナナメ読み

景時と義経㊤沼島水軍の頭領、なぜ梶原氏?

淡路島の南に浮かぶ沼島。勾玉の形を連想させる =兵庫県南あわじ市(本社ヘリから、沢野貴信撮影)
淡路島の南に浮かぶ沼島。勾玉の形を連想させる =兵庫県南あわじ市(本社ヘリから、沢野貴信撮影)

淡路島の南に沼島(ぬしま)という小島があります。勾玉(まがたま)形の島で、北西側の真ん中に漁業中心の集落と沼島漁港があります。島からまっすぐ西に向かえば、四国の徳島市、という地理。

江戸時代末期に漁業や海運業で最も栄え、昭和30年頃までは人口2500人ほどを擁していましたが、その後は人口減少に向かっています。

この島は水軍の根拠地でした。淡路島の大名となった脇坂安治に属した沼島水軍は、豊臣秀吉の朝鮮出兵などにもかり出されています。この沼島水軍のもともとの頭領は梶原氏で、梶原景時の子孫を名乗っていました。島内には鎌倉時代前期のものと鑑定されている景時の供養塔、梶原一族のお墓もあります。

沼島水軍の頭領が、本当に梶原景時の血筋であったかどうかは定かではありません。おそらくは頭領は血はつながってはいないけれども、もはや本家は滅びてしまっていて、どこからもクレームがつきそうもない梶原の名を使ったのではないかな。でも、問題は沼島の水の武士団が、なぜ梶原の名を知っていたか、です。

梶原景時は屋島の平家と戦うことになった源義経を補佐する立場にありました。その第一の役目は、船を調達することでした。鎌倉武士は馬の扱いに熟達していましたが、海と関わりを持っていません。船をそもそも持っていなかった。だから屋島を襲撃するためには、船の数をそろえる必要があった。景時は沼島に水軍があるのを知り、味方に勧誘するため自ら島に渡ったのではないでしょうか。

当時の軍勢の編成を考えてみましょう。総大将である平清盛は京都を、源頼朝は鎌倉を離れない。それで遠征軍が組織されるのですが、大将となるのは一門の御曹司です。平家軍は富士川の戦いのときも、その後の北陸制圧戦のときも平維盛が大将軍になりました。彼は清盛の長男、重盛の長男です。光源氏の再来といわれた彼は実戦は不得手で、侍大将として富士川は藤原忠清、北陸は平盛俊、藤原景家、藤原忠綱(忠清の子)が付きました。

源氏であれば、頼朝の弟の源範頼、源義経が大将です。で、侍大将は和田義盛と梶原景時。この2人は侍所の長官と副長官です。その補佐に付いたのが、どうやら土肥実平。景時と実平は、関東武士には珍しく事務仕事に堪能であったので、この任務を託されたようです。

貴公子と老練な補佐役の組み合わせ。これは後々、織田信長もやっています。長年の宿敵であった武田家を滅ぼすときの織田の大軍。総大将は嫡男(というか実権はともかく、織田家の家督は継承済み)の信忠。軍勢を差配する侍大将は「引くも滝川、進むも滝川」と戦上手をうたわれた滝川一益。結果、武田家は滅亡し、滝川は上野と信濃の一部、60万石ほどの広大な領地を与えられています。

本能寺の変で実現しませんでしたが、まさに渡海しようとしていた四国討伐軍の総大将は三男の信孝(宣教師によると、もっとも信長に似た器量人という)、侍大将は丹羽長秀。この軍事作戦が成功した暁には、信孝、長秀にはそれぞれ四国中の一カ国が与えられる予定だったのかもしれません。

こう見ていくと、義経の奇妙さが際立ちます。大将は自ら突撃したりはしないのです。軍事行動の先頭に立ったりはしないのです。良い悪いは別として、今回のロシアの対ウクライナ軍事作戦。ロシア兵の士気が全く上がらないため、将軍が最前線に赴いて兵たちに演説したり陣頭指揮をしたりしている途中、ウクライナのスナイパーに狙撃されて何人も命を落としているようです。これが実にまずいのは、いうまでもない。

徳川家康は「味方の盆の窪(くぼ)ばかり見ているようでは、戦いに勝つことはできない」との言葉を残しています。盆の窪とは、うなじの中央のくぼんだ所。頸窩(けいか)ともいうようです。ようするに、味方というか部下の後ろについて回っていては、勝てない。大将はときには前線に出て、士気を高めよ、というわけです。ですが、あくまでも「ときには」。当時の武将が着ていた「当世具足」はとんでもなく目立ちますよね。あんなものを着て最前線にいたら、まちがいなく鉄砲の集中砲火を浴びて蜂の巣。今般のロシア将官のようになります。

指揮官には指揮官の、侍大将には侍大将の役割があります。指揮官は後方に控えて合戦の全体を観察し、指令を飛ばす。侍大将は戦線を構築し、指令を受け取り、兵を鼓舞して戦う。両者は仕事内容が異なるのですから、一緒にはできない。このあたりは、会社でも同じことが言えるはずです。そういえば少し前、中日ドラゴンズの谷繁元信監督はプレーイングマネジャーだったので、「代打、オレ」とやってスタンドを大いに沸かせました。でも、選手も監督も、なんて重圧には、谷繁ほどの名手でもそうそう長く耐えられない。

ところが、ところが。義経は部隊の指揮官であるくせに、自ら最前線に出るわけです。これはそもそも「おかしい」のだということを指摘しなくてはならない。景時が地道に船を調達しようとあくせく動いているときに、義経は相手に突撃することばかり考えている。逆櫓(さかろ)論争だけじゃなく、景時は「やってらんねえや」と思ったことでしょう。 (次週に続く)

■神話と水軍の島、沼島

淡路島の南4.6キロに浮かぶ島。兵庫県南あわじ市。江戸時代は阿波徳島藩領で、明治9年に兵庫県の管轄となった。漁業や海運業で栄えたが、近年は人口流出が続いている。日本神話によると、イザナギノミコト・イザナミノミコトの2神が、天上から「天沼矛(あめのぬぼこ)」で青海原をかき回し、その矛を引き上げた際、矛の先から滴り落ちた潮が凝り固まってオノゴロ島となった。2神はここに降り立ち、国産みを始めるのだが、このオノゴロ島こそ沼島であるとする説もある。

【プロフィル】本郷和人

ほんごう・かずと 東大史料編纂(へんさん)所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

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