千田嘉博のお城探偵

島津氏の「激動の歴史」伝える 鹿児島城

立体復元した鹿児島城御楼門。今は誰でも通れるこの門は、江戸時代には藩主など限られた人だけが通れた=鹿児島市(筆者撮影)
立体復元した鹿児島城御楼門。今は誰でも通れるこの門は、江戸時代には藩主など限られた人だけが通れた=鹿児島市(筆者撮影)

鎌倉幕府の御家人であった惟宗忠久(これむねのただひさ)は母が比企(ひき)氏の一族と伝えられる。源頼朝の平家追討の戦いで忠久は比企能員(よしかず)に従って戦功を上げ、1185(文治元)年に源頼朝の推薦で公家の近衛家がもっていた島津荘の下司職(げししき)に、その後は地頭(じとう)に任命された。忠久はこれを機に姓を島津と改めて、島津氏初代の島津忠久となった。

1197(建久8)年に忠久は現在の鹿児島県にあたる薩摩・大隅の守護になり、さらに現在の宮崎県にあたる日向の守護になって三国守護となった。順調に出世を重ねた忠久であったが1199(建久10)年に頼朝が死ぬと、鎌倉幕府の政争に翻弄された。鎌倉殿を受け継いだ源頼家は就任わずか3カ月で裁判の決定権を奪われ、幕府は13人の合議制へ移行した。1200(正治2)年には将軍頼家を支えようとした梶原景時が失脚して、一族とともに滅亡した。

さらに1203(建仁3)年には頼家の舅(しゅうと)として権力をふるった比企能員が北条時政邸で惨殺された。比企一族は能員の娘の若狭局が生んだ頼家の長男・一幡(いちまん)の館に立て籠もったが、北条義時の軍勢に一幡もろとも滅ぼされた。忠久は、能員の縁者であるとして薩摩・大隅・日向の守護職を没収され、1205(元久2)年に薩摩の守護職だけに復帰した。しかし奪われた大隅と日向の守護職は島津氏が源頼朝から正式に与えられたものという認識は、のちに島津氏が九州を席巻する正当性につながった。

島津氏の鹿児島への本拠移転はゆるやかに進み、本拠を完全に鹿児島へ移したのは鎌倉末期以降と考えられている。鹿児島市内には島津氏が本拠にした城がいくつもある。14世紀の東福寺(とうふくじ)城、14世紀後半から16世紀半ばの清水城、16世紀後半の内(うち)城、そして17世紀以降の鹿児島城である。いずれも垂直に斜面を削ると安定する火山灰土壌シラスを巧みに用いた山城だった。

このうち鹿児島城は、今一般には鶴丸城と呼ばれ、また城山として親しまれている。ところが鹿児島県の調査によれば鶴丸城の名称を使ったのは近代以降で、江戸時代の薩摩藩の公式書類や絵図の表記は鹿児島城で統一していた。そうした学術調査の成果を受けて、今後は鹿児島城の名称を用いていく方針と聞く。

鹿児島城では山麓の居館の門であった御楼門(ごろうもん)を2020(令和2)年に原位置に立体復元した。御楼門は江戸城の門などと並んで日本屈指の巨大櫓門で、その姿は誠に堂々としている。現在は御楼門は城外と同じ高さに立っているが、近代の古写真や発掘成果によると、本来は城下側は地形的に低くなっていて、御楼門は土手の上にそびえていた。当時はさらに立派に見えたに違いない。

そして現在、鹿児島城の城山の発掘調査も進んでいて、城内にある黎明(れいめい)館学芸課の西野元勝さんのご教示によれば、城山展望台に隣接した「城山ドン広場」周囲の高まりは中世以来の巨大な土塁であった。この場所は西南戦争で薩軍が本営を置いたところで、西郷隆盛は鹿児島城の由緒正しい曲輪で指揮を執ったと分かった。(城郭考古学者)

鹿児島城 初代薩摩藩主の島津家久が1601(慶長6)年頃、城山のふもとに築城を始めた平山城。天守などもない館造りだった。1871(明治4)年の廃藩置県で最後の藩主・忠義が去るまで累代使用された。6年後の西南戦争では二の丸が焼けた。石垣には、銃弾や砲弾の痕がある。

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