話の肖像画

「すしざんまい」喜代村社長・木村清(4) 幼くして父と死別、急変した運命

小学生時代
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《昭和27年、千葉県関宿町(現野田市)に生まれた。関宿は江戸時代、利根川水運の要衝として将軍家ゆかりの譜代大名が治めており、実家はその家臣を祖先とする、14、15代続いた武家の家柄だ》


実家には江戸時代からの古文書がたくさん残っていて、天気がいいとおばあちゃんが虫干しをするんです。幼いころは貴重な歴史資料だってわからないでしょ。古い紙なので指でこすると、パラパラと崩れていく。それが面白くてね。大人がいないとき、何枚もこすって紙を崩し、よく怒られました。貴重な古文書だったようで、大人たちは私が崩した紙をていねいに継ぎ足し、本に戻していたことを覚えています。

おふくろは再婚で、最初に結婚した男性は軍隊に行って、3度目の戦場に向かう途中、乗っていた輸送船が魚雷で撃沈されて戦死された。おやじも軍隊に入り、零戦で大分の基地から沖縄方面に出撃したが撃墜され、流木につかまって2週間も海を漂流して島に流れ着き、捕まった。海水を飲んではいけないと習っていたので、木片をちぎって口に入れ、かつお節だと思ってかみ、出てきた唾液をすすって生き延びたと聞きました。

生きて帰ってくるのが恥ずかしいとされる時代。おやじが関宿に帰ってきたのは終戦から2年もたった昭和22年の夏で、実家ではもう戦死したと思われていた。それが奇跡の生還です。おやじはおふくろの前夫とはいとこ同士で、戦争未亡人となったおふくろには男手がなかったため、「女手ひとつでは大変だろう」と一緒になった。しばらくして姉2人が、最後に私が生まれたのです。


《なにひとつ不自由のない生活だった》


実家は広い田んぼや畑がある大きな農家で、1200坪くらいの敷地には藁(わら)ぶきの家とうまや、蔵がありました。農作業で使う牛や馬がいて、庭にはオート三輪や米国製の大きなバイク、車があった。先の大戦で生死をさまようような経験をしたためか、おやじは度胸が据わっていて、タバコの栽培とか、車の代理店とか、多くの事業を手掛けていたようです。

ある日、近くに住む本家の長男で、戦闘機の整備兵だったおやじの兄が家にやってきて、「飛行機の部品が手に入ったんで小型飛行機でも造ろうか」と2人乗りの自家製飛行機を造り始めた。何でも自分で造ってしまう。そういう時代でしたね。また家には猟銃があり、「おい清、鉄砲持ってこい」と言われ、大型バイクで一緒に狩猟に出かけたこともあります。猟犬も飼っていて、ピレネー犬やポインター、セッターが5~6匹ぐらいいましたね。


《4歳になる前、一家の運命が急転した》


昭和31年2月13日、おやじはいつものように猟銃を背に、自転車に乗って鴨(かも)撃ちに出かけていきました。その帰りです。おやじは大型トラックに追突されて亡くなりました。私の誕生日は4月19日なので、あと2カ月で4歳というときでした。

お葬式のことはおぼろげながら覚えています。トラックを運転していた若い男性が来ていて、親戚の人が「この人が悪いんだ」と責めていた。いたたまれなさと悲しさで、式場から飛び出ました。そして空を見上げたところ、いきなり低空飛行する真っ赤な戦闘機F86セイバーが目に飛び込んできたのです。あまりの美しさに悲しみが一気に驚きに変わりました。「あれに乗りたい」。おやじの葬式でのあの一瞬の出来事が、私のその後の運命を決めたのです。

葬式後、ある大人がやってきて、おやじに借金2千万円がある、と伝えてきた。おやじの事業を詳しくは知りませんでしたが、全て黒字で借金していた覚えはない。しかし、おふくろは恨み言をいっさい言わず、「返しましょう」と答えました。ラーメン一杯が45円の時代です。大黒柱を突然失った家族の、厳しい戦いが始まりました。(聞き手 大野正利)

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