話の肖像画

「すしざんまい」喜代村社長・木村清(2) 築地とともに栄枯盛衰、恩返しの時が…

(春名中撮影)
(春名中撮影)

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《平成25年、「和食」がユネスコ無形文化遺産に登録され、和食の発信地「築地」は国際ブランドとなった。築地とは深い縁で結ばれている》

築地とは昭和49年、水産関連会社に入社して以来、50年近くのおつきあいです。若いころは場内場外とも走り回っていました。活気があって、すごかったですよ。魚は大好きなので勉強したいが、「忙しいからどけっ」とか怒鳴られてね。最初はとても飛び込めるような雰囲気ではありませんでした。

でもそこをなんとかしないと生き残れない。そこで水産加工のお店で一緒に切り身を作るなど、手伝いながら「これ何ですか」「味は」「もうかるのですか」と聞く。知らないことばかりですから、楽しくてしようがなかったですね。

納品もお店に届けるだけでなく、倉庫の奥まで運ぶようにした。倉庫の中が散乱していたら積み上げ直して掃き掃除をし、きれいにしてから品物を納めて帰るんです。誰が見ているわけではありませんが、徹底してやりました。3カ月も続けると、「何か売るものがあるなら、持ってこい」と話しかけられるようになる。こうしてお得意さんが増えていきました。

《昭和54年9月に独立、水産関連のほかに弁当店やカラオケ店など、80近い事業を手掛けた。順風だった事業が、バブル崩壊で急変する》

バブル景気のころは日本中が熱に浮かされていましたが、築地は場所柄、目立ってしまう。「築地のすし屋は銀シャリではなく、銀行の金利を握っている」といった陰口をよく聞きました。私は投資とは無縁でしたが、バブル崩壊後は借入金の返済に奔走することに。それまで「借りて借りて」の一点張りだった銀行が一転、「返せ返せ」になっちゃったんです。

転機が訪れたのは平成9年。私が出張中、メインバンクの担当者が来て、毎年行っていた手形の書き換えだという。妻にハンコを押してもらったところ、その年に限って「借入金の一括返済」との記載があったのが、後になって分かった。分厚い契約書にわずか1文、気が付くはずはありません。後日、四千数百万円の借入金を一括返済しないと整理回収機構行きになる、と知らされた。信用していた銀行が何の説明もなく、そんな重要な文言を入れるのか。頭に血が上りましたが、もう手遅れです。事業をすべて清算し、手元に残った200万円で小さなすし店を始めました。45歳、裸一貫での出直しでした。

《バブル崩壊の影響は築地にも。多くの小売店や飲食店が投資の失敗で姿を消し、空き地が目立つようになっていた。年間600万人だった観光客は150万人に激減。そんなとき、再起をかけた小さいすし店に思わぬ声がかかった》

わずか10坪でカウンターもなく、テーブルに18席だけのすし店でしたが、海鮮丼などが人気となって経営は波に乗りました。とにかく新鮮なネタを仕入れ、明朗会計で提供した。これで次第に行列が絶えない店になっていったんです。ある日、瀬戸物や漆器を扱う築地場外の老舗食器店「赤鳥居」の小川富久代会長がふらりと来店した。「築地は今、大変なんだ。私の店を貸すから人を集めてくれないか」。提示されたのは築地場外の一等地です。「保証金がないので」と辞退すると、「後からでいい。1千万円としておこうか。とにかく築地に昔のような活気を取り戻してくれないか」。第一勧業銀行の担当者の協力もあり、ここでチャレンジすることを決意しました。

すべてを失い自暴自棄になったこともありましたが、そこから正直に、懸命に働いてきた姿を見てくれる人がいる。胸がいっぱいになりましたね。よし、これまでにないすし店で人を集め、築地に恩返しをしよう。こうして平成13年4月、日本初の年中無休24時間営業のすし店「すしざんまい本店」が誕生しました。(聞き手 大野正利)

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