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文芸評論家 富岡幸一郎 『雨滴は続く』野心に満ちた「文学的実験」

『雨滴は続く』(西村賢太著)
『雨滴は続く』(西村賢太著)

『雨滴は続く』西村賢太著(文芸春秋・2200円)

この小説の連載最終回の執筆途中で、西村賢太は急逝した。54歳での突然の訃報には驚く他はなかったが、ここに一千枚の大作となった本書を読むと、この作家の磁場のような文章の力に改めて瞠目(どうもく)させられる。

これだけの長編であるが、物語のあらすじは、主人公の北町貫多が同人雑誌に発表した作品が商業文芸誌に転載され、やがて芥川賞の候補になっていく、プロの作家への道を歩み始める話ということになる。もちろん、私小説の師と仰ぐ藤澤清造や田中英光のエピソード、貫多の習慣たる風俗で出会った子持ち女との交際、女神のように現れた女性新聞記者への欲情などにも彩られてはいるが、波瀾(はらん)万丈のストーリーが次々と展開されるわけではない。

父親がわいせつ罪で刑務所に行き一家離散、中学卒業後に正規の仕事に就かず日銭を稼いで酒や風俗に浪費し、家賃を払えず夜逃げするといった自堕落な貧乏生活を繰り返してきた貫多が、ついに〝新進作家〟として走り出す。つまり、これまで作家が私小説として描いてきた世界を書くに至る、プロの小説家へと転進していく時間がテーマとなっているのだ。

私小説家となっていく「自分」を主題にしたメタフィクションとも言える。西村賢太という作者が、北町貫多という作中人物になっていくための苦悩と奮闘がここにある。

作家が、藤澤清造の「歿後(ぼつご)弟子」を目指すのは、「その作の愚直なまでの馬鹿正直さに魅(ひ)かれたはずなのだ」という一文が作中にあるが、この「愚直」さを体現するのは文体だけである。この「文」の「体」力が、間違いなくこの長編にはみなぎっている。西村賢太がやろうとしたのは野心に満ちた「文学的実験」であった。その後に来るものをもはや読めないのが残念だ。


『形影相弔・歪んだ忌日』西村賢太著(新潮文庫・473円)

 『形影相弔・歪んだ忌日』(西村賢太著)
『形影相弔・歪んだ忌日』(西村賢太著)

6編を収録。巻頭の「形影相弔」は、北町貫多が43歳でA賞をもらった、と始まる。「苦役列車」での芥川賞受賞と重なる。作家として売れて、女性との同棲(どうせい)生活も実現するが、その結末は-。また、名前が世間に広まり20年間没交渉の母親から突然の手紙が舞い込む。勢いある自虐の筆致に、作家の面目躍如たるものがある。私小説に戯作の爆発力を潜ませた傑作である。

富岡幸一郎さん
富岡幸一郎さん

〈とみおか・こういちろう〉 昭和32年、東京生まれ。中央大仏文科卒。『群像』新人文学賞評論部門優秀作。関東学院大教授、鎌倉文学館館長。著書に『内村鑑三』他。

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