天下茶屋の利点は、読者数が急増していたことだけではなかった。大阪の住宅事情が逼迫(ひっぱく)し、郊外に続々と新興住宅地が開発され、天下茶屋は最前線として新しい階層、いわばサラリーマンたちの一大拠点となっていた。その結果、大勢の新聞人が居を構えていたのである。
南大阪新聞および夕刊大阪新聞の編集は、大毎(大阪毎日新聞)人脈が柱になっていた。天下茶屋に住んでいた木下不二太郎は、初期の編集の中心となった。のちに毎日の社長を務める奥村信太郎も近辺に住んでいて、しばしば編集を助けた。前田久吉は大毎の社長だった本山彦一に師事しているといっていいほどの間柄であり、本山も積極的に前田を助けたとみられる。
前田側からみた視点だけでは公平を失する。毎日側からの視点も挙げておく。前田は当時、夕刊大阪新聞を発行する新聞経営者でありつつ、大毎系列の有力新聞販売店主でもあったから、毎日の販売史にしばしば登場する。
毎日側から見れば、南大阪新聞は「近郊は記事取材の盲点となりやすく、大毎も朝日も天下茶屋のニュースが紙面にほとんど出ない」ことに着目した新聞販売店主のアイデアだった。「地元のニュースをおぎなうために、自力で地域新聞を発行し、それを本紙の付録にしようと思い立った」