話の肖像画

「すしざんまい」喜代村社長・木村清(1)母子4人で分け合った2切れのマグロ

すし店「すしざんまい」を展開する喜代村の社長、木村清氏(春名中撮影)
すし店「すしざんまい」を展開する喜代村の社長、木村清氏(春名中撮影)

《全国で55店舗を展開、店頭で解体ショーを行うなど「マグロ大王」として親しまれている。人懐こい笑顔には、幼少期に父親を亡くして高校進学を、訓練中の事故で戦闘機パイロットの夢を、バブル崩壊で順調だった数々の事業を断念するなど、多くの修羅場を乗り越えた経験が刻まれている》

3歳で父を亡くしてから一家総出で働いていました。高校への進学を諦めかけていたところ、戦闘機のパイロットになれると聞き、15歳で航空自衛隊に入隊したのですが、今度は訓練中にトラックの落下物が頭を直撃して目の調整力が低下してしまい、夢である戦闘機パイロットへの道が絶たれました。その後、アルバイトや訪問販売の会社勤務などを経て、水産会社に就職したのが昭和49年。職業安定所の紹介でした。よもや50年近くも水産業界で働くとは思ってもみませんでしたね。

「マグロ大王」とは誰が言い出したのか、定かでないんです。マグロのよしあしは包丁を入れたときの感覚や手触り、最後は食べて判断します。それで200キロ以上のマグロを1日150本、160本とさばいていた時期もありました。また今でもいいマグロを求めて世界中を飛び回っています。とにかくお客さんにおいしいマグロを提供したいと、妥協せずにマグロと向き合ってきたことから、「大王」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。

《平成31年1月の初競りで、大間産の本マグロを1本3億3360万円、1キロ当たり120万円で落札、話題になった》

23年の東日本大震災の翌年、香港資本のすしチェーンと競り合い、初競りで一番高値をつけた「一番マグロ」が初めて5千万円を超えました。初競りで落札された初物マグロは縁起物とされ、お客さまに喜ばれます。東日本大震災の影響が強く残っていた日本の皆さんに一番マグロを食べていただき、元気になってもらいたい、との一心でがんばっちゃったわけですが、あまりに値段がすごかった…。

初競りが注目されると漁師さんが喜ぶんです。高齢化や後継者不足、最近では燃料費の高騰と、漁師さんは大変ですから、いい話題を届けたい。最近はコロナ禍で外食も自粛ムードが続いていたので、高額での落札は自粛しています。

《高値で仕入れたマグロでも、1貫398円(税別)の値段は崩さない。このこだわりには、幼少期の原体験がある》

子供のころ、親戚や知人の冠婚葬祭に出席したおふくろは、そこで出された折り詰めを食べずに持ち帰ってくれていました。ある日、その中にマグロの切り身が2切れ入っていた。昭和30年代で、当時のマグロは高級魚。そのときは兄が不在で、家にいたのは私と姉2人。おふくろは「一人で食べればそれで終わりだけど、これを2つに切れば家族4人で食べられる。一人で食べるより、家族みんなで食べた方がおいしいに決まっているし、喜びも4倍になるよ」と4つに切って食べたんです。

今思えば、その切り身は安価なキハダマグロの赤身だったと思うのですが、おいしかった。わずか半切れのあのマグロの味は今でも忘れられません。社名「喜代村」には、このときの喜びを忘れまいとの思いを込めました。そして高価な初物マグロでも、一人でも多くの方に食べてもらえるよう、価格を変えずに提供させていただいているのです。(聞き手 大野正利)

【プロフィル】木村清

きむら・きよし 昭和27年、千葉県関宿町(現野田市)生まれ。中央大学法学部卒(通信教育課程)。中学卒業後、航空自衛隊第4術科学校生徒隊に入隊。49年に退官し、アルバイトを経て水産会社に入社。54年に独立。平成13年、築地場外市場に日本初となる年中無休24時間営業のすし店「すしざんまい本店」を開店。

(2)につづく

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