話の肖像画

落語家・桂宮治(26) 爆笑と大ネタ人情噺、両輪の魅力

爆笑落語だけでなく、人情噺も逸品だ
爆笑落語だけでなく、人情噺も逸品だ

(25)へ戻る

《「〝爆笑派〟の新真打だが、実は大ネタ人情噺(ばなし)が似合う」。落語コラム本「落語の目利き」(竹書房)で著者の落語評論家、広瀬和生は言い切る》


独演会はいつも、最初からふざけて、わぁっとやって、場当たり的なものであっても演出なり構成なりをして、最後に締めたら「2時間たっていました」という感じです。やりながら「さっきはこうだったから、ここはこうしよう」とか考えて、最初から最後までやるのが好きです。

きょうのテーマというのはない。そういうものは、その日の流れで勝手にできあがるんです。自分の頭の中で考えていってみたら、お客さまの反応がまったく違うということがたくさんある。だから全部を決めずに、こういう曲をかけてこういうふうに遊んで、こういうふうにやっていって、緞帳(どんちょう)が閉まるときはこういう空気にしたいというくらいに考えてから高座に上がります。

それでも「あ、違う。もっとこっちだった」となったりする。結局、独演会に関してはお客さまと一緒につくっているんだと思います。噺の受け取り方はお客さま次第。お客さまの反応とこっちの対応でどんどん流れが変わってくる。なかったはずのセリフが出てきたり、サゲ(オチ)まで変わることもあります。独演会の空気はお客さまと一緒につくるもの。最初からこういうものだって、かっちりつくっていくタイプでは僕はないです。


《令和3年2月3日、国立演芸場。二つ目として最後の高座に上がった。トリネタは「鼠穴」。遊びで親の遺産を食いつぶした弟が江戸で商売をする兄を頼るところから始まる古典落語の大ネタだ。目の当たりにした広瀬は「(兄と弟の間の)〝心の闇〟に正面から対峙(たいじ)した」とうなった》


国立の「鼠穴」のサゲを、ああいう感じにしようというのは僕の中では稽古していたときからありました。あの兄貴って「たぶんああいう人だろうな」って勝手に考えてはいました。最後はああいう空気にしようと。でも、セリフも状況も決めていない。そのときの兄貴の感情がどうなるかは、そのときに決めるというか、出すというか。

兄貴になっている僕がいて、物語る僕がいて、お客さまの反応も俯瞰(ふかん)している僕がいて…。自分の中で3者、4者くらいが同時にいる。で、最終的にああいう形になった。でも、次にやるときは、お客さまの反応で、もしかしたらハッピーエンドにしちゃうかもしれない。


《広瀬は「爆笑落語とドラマティックな大ネタ。この両輪で〝真打の宮治〟は大きな花を咲かせるに違いない」と占う》


芝居をやっていたせいかもしれないけど、一個一個の噺でなく、一公演全体で「こういうものなんですよ」というのをみせたいのかもしれません。演目を決めるときは「最後がこれだったら、その前はこうかな」という順番です。最後にやる噺がどういう噺かによって、前後の空気のつくり方も変わってくる。最後の噺が僕の中では一番重要です。緞帳が閉まったときにお客さまがどういう気持ちになるかを想像しながら、こうしようああしようと決めています。ワクワクウキウキして「よかった~」という気持ちで帰らせたいのか、どよーんとした気持ちで帰らせたいのか。

いまは、1つの公演に両方の気持ちを詰め込んでいます。笑って泣かせたいんですね。日本人が好きな噺ってそうでしょう。楽しかったけど、最後にほろっとくるのが好き。泣く方が笑うより、ストレス発散できますしね。笑った後に泣くとさらにそうですよね。(聞き手 池田証志)

会員限定記事会員サービス詳細