モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら

(130)シジュウカラが発した「警戒ワード」

自宅のポスト内の巣にあったシジュウカラの卵
自宅のポスト内の巣にあったシジュウカラの卵

自宅の郵便ポストをシジュウカラに乗っ取られてしまった。緑のコケと白い獣毛で作られたふかふかの巣の中には卵が9個。宝石のように見える。

突然の贈り物にうれしくなり、「小鳥が巣をつくっているので、玄関前のポストに入れてください」と書いた紙片をポストの扉に貼り付けた。前回のコラムで慈恵病院のこうのとりのゆりかご(通称赤ちゃんポスト)に触れたばかりだったので、大げさな物言いになるが「聖なる義務」を与えられた心地となった。

加賀千代女の「朝顔や釣瓶とられてもらひ水」をもじって一句ひねり出そうとする。「シジュウカラやポストとられて…」。残念ながらその才はまったくないようだ。余談になるが、千代女の句は「朝顔に」が一般的だと思う。ただ、直筆で「朝顔や」と書かれたものもある。「に」では筋が通り過ぎてつまらないし、そもそも朝顔の鮮やかさがぱっと伝わってこない。私は圧倒的に「や」を好む。閑話休題。

じつは3年前にも、シジュウカラがポストに営巣したことがあった。そうとは知らず、近隣とのトラブルなどないはずなのに、誰がこんないやがらせをするのだろうと不気味に感じながら、ほうきでコケと獣毛を掃き出した。ところが翌朝、ポストの中を見てがくぜんとした。元のもくあみになっていたのだ。なんてやつだと腹を立てながら掃除をした。ところが半日後、ポストはまたもや同じ状態に。下手人の執念深さがとてつもなく恐ろしく感じられ、ついに警察に連絡した。

こんないやがらせを受けるようなことを何かやらかしたのか。人の受け止め方はそれぞれだからなあ…。玄関前に置いてあるイスに座ってたばこを吸いながら、自分の口にした言葉や振る舞いを振り返っていたそのときだった。コケをくわえてすばやくポストの中に入ってゆくシジュウカラの姿が目に入った。不安は一瞬にして消えた。

その直後にやってきた顔見知りの警察官には、「お騒がせしてすみません。じつは」と事情を説明し、ポストに貼り紙をして、ホームセンターへポストを買いに行った。人生の大半を自然と親しむことなく過ごした自分の無知を思い知らされた出来事だった。

しばらくして、ポストに耳をそっと当てて、シジュウカラがいないのを確認したうえで中を確認すると、卵が1個だけあった。通常は8~9個というから、私の破壊行為が原因で、十分に産卵できなかったのだろう。本当にすまないことをした。それから1カ月後、扉を開けてみると、巣の中には割れた卵の殻があった。無事に孵(かえ)り、巣立ったと信じている。

シジュウカラの孵化(ふか)は抱卵を始めてから2週間、巣立ちは孵化から20日ほど。ポストの扉を開けて観察したいという欲望は封印し、ポストに耳を当て、中の様子をうかがう日々がしばらく続く。まだ経験したことはないが、初孫の誕生を心待ちにする祖父の気持ちに近いのかもしれない。

動物行動学者の世紀の発見

シジュウカラといえば近年、まさにコペルニクス的転回ともいえる大発見があった。多くの方がご存じかとは思うが、かいつまんで紹介しておこう。

発見者は動物行動学者の鈴木俊貴さん(京都大学白眉センター特定助教)だ。

平成20年6月、研究場所である軽井沢の森で、鈴木さんはいつもとは違う鳴き声を耳にする。つがいで子育てをするシジュウカラは、通常の天敵に対しては「ピーツピ」と鳴いて警戒を呼び掛けるが、そのときの声は「ジャージャー」。アオダイショウが巣を狙っていたのだ。地面から木をよじ登り巣箱に入り込んで卵やヒナを丸のみするヘビは、シジュウカラにとっては特別な脅威であり、そのためにヘビを意味する「ジャージャー」という単語を作り出したのではないかと鈴木さんは考えた。

「ジャージャー」が本当にヘビに対応する単語なのか。証明するために鈴木さんは3つの実験を行った。まずヘビのレプリカを巣箱の上に置いた。シジュウカラは「ジャージャー」と鳴いて威嚇した。次に録音した鳴き声を聞かせると、地面と巣箱の中を確認する行動を取った。さらに20センチほどの枝を巣箱のある木の幹に沿ってヒモでゆっくり引き上げながら鳴き声を聞かせると、枝を確認する行動を取った。地面をはわせた枝に対しても同様だった。つまり、人間が「リンゴ」という単語を聞いて赤く丸いイメージを思い浮かべるように、「ジャージャー」という鳴き声を聞いたシジュウカラは、頭の中にヘビのイメージを描いたのだ。

鈴木さんの研究によれば、シジュウカラは20以上の単語を持ち、これらを組み合わせて175以上の文章を作ることができるという。言葉は人間だけのもの、という思い込みは覆された。鈴木さんが提唱する動物言語学がこれからどう進展してゆくか楽しみだ。

動物を飼う者は動物に飼われている

シジュウカラの言語能力を知り、モンテーニュが第2巻第12章「レーモン・スボン弁護」に書いていることを思い出した。

《自惚(うぬぼ)れは我々の持って生れた病である。すべての被造物の中で最もみじめで脆(もろ)いものといえば人間であるのに、それが同時にもっとも傲慢なのである。(中略)どんなふうに彼ら(動物たち)と我々とを比較して、彼らをばかだと結論するのか》

偏見のない透徹したまなざしで人間だけでなく、動物をも見つめる彼ならではの言葉だろう。これに関連して、海賊に捕まり奴隷として売りに出された古代ギリシャの哲学者、ディオゲネスの逸話を紹介する。彼を買い戻そうと苦心する両親の様子を聞いたディオゲネスは、こう言い放つ。「親たちは気が狂っている。私を抱え養っている者こそ、私の奴隷である」。そしてモンテーニュは断じる。

《生き物を飼っている人たちもまた、彼らを飼っているというよりは、むしろ彼らに飼われているのだと、悟らなければならない》

なるほど、柄にもなく好々爺(こうこうや)ぶってシジュウカラを見守ろうとしている私は、じつのところシジュウカラに飼われているのかもしれない。ある朝、ポストの上の電線に止まり周囲を警戒しているシジュウカラが、私を発見して発した言葉を聞いた。

「ピッピ、ピッピ」

いったいどういう意味なんだろう。

※モンテーニュの引用は関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)による。

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